福岡の遺跡ー大宰府政庁(都府楼)跡
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プロローグ
元旦に坂本八幡宮にお参りしました。その後、近くの大宰府政庁跡(だざいふせいちょうあと)に行きました。大宰府政庁跡は地元では都府楼跡 (とふろうあと)とも言います。都府楼の由来は唐名の「都督府」(ととくふ)からきてます。また、近くには西日本鉄道の「都府楼前」駅があります。
太宰府市(だざいふし)の地名の由来となっているのが、古代において地方最大の役所であった大宰府(だざいふ)です。因みに、律令政治機構の役所を指す場合には「大宰府」と大を用い、現在の行政名「太宰府市」や「太宰府天満宮」には太を用いてます。
現在の九州全体を統括し、中国や朝鮮半島など東アジアとの外交窓口でもあった大宰府は様々な文物や人が行きかい、多様な文化が花開いた国際都市でした。
現在、大宰府政庁跡をはじめとする一帯は、その歴史と文化を伝える国の特別史跡であると共に、市民の憩いの場として親しまれています。また、太宰府市は2015年に『古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点』として、文化庁より日本遺産の認定も受けてます。
2015年ももクロ男祭り、ばっしょーちゃんオープニングアクトの記念の場所✨✨😊
— デコロック (@loudhardheavy) January 10, 2020
ここに来るとパワーがもらえる👏👏#太宰府政庁跡 pic.twitter.com/Pc4Qe8Xf3V
大宰府政庁とは
太宰府市の中心部にぽっかり広がる空間があります。この場所に、飛鳥から奈良・平安時代にかけて西海道九国三島(古代・中世の九州等の行政区分名)を治める役所「太宰府」が置かれていました。当時、大宰府は地方最大の役所で九州の統治だけではなく、外交、防衛も行なっていました。
大宰府政庁を中心として、周辺の地区には役所が置かれました。また、学校院(官史教育養成機関)などの行政機関も設置されており、往時には約1000人もの役人が仕えてました。
大宰府政庁を中心とした街並みは、平城京や平安京と同様に、東西南北に碁盤の目状態に作られた条坊制で、多くの人々で賑わう様子は「天下之一都会」とも呼ばれました。
建物の変遷
発掘調査の結果、大宰府政庁は3回にわたり建て替えられていることが判明しました。下の写真は政庁Ⅰ期(7~8世紀)~現代までの土層断面です。地面の下に眠る1000年の歴史を知る貴重な資料となってます。
第Ⅰ期 7 世紀後半~8世紀第1四半期
大宰府政庁第Ⅰ期の遺稿では掘立柱建物や柵などが確認されてます。第Ⅱ・第Ⅲ期のような都宮と同様の朝堂院形式の建物配置をを想定することは難しいそうです。
第Ⅱ期 8世紀第1四半期~10世紀前半[天慶4(941)年]
建物のほとんどが礎石を用いて建てられています。平城宮など都宮と同様の朝堂院形式を採用し政庁域の北よりに正殿、その北側に後殿があります。正殿南側には東西に脇殿を各二棟配してをり、それらに挟まれた部分が広場(前庭)を形成しています。広場の南側には中門と南門が配されています。
◎941年 藤原純友の乱の際に焼き討ちされ、焼失しました。
第Ⅲ期 10世紀 後半~12世紀前半頃
焼き討ちされた焼土層の上に、改めて礎石を配置するなどして再建されました。一部相違がありますが、建物の配置や礎石建物で構成されるなど点など、基本的には第Ⅱ期を踏襲してます。
再建後、11世紀の中頃には衰退していき、12世紀前半頃までに建物や施設は、廃絶したと考えられています。
上の写真の三つ石碑は大宰府政庁跡地を守ろうとした人々がいた証です。左の「大宰府址碑」(だざいふしひ)は御笠郡の有志らによって明治13(1880)年に建てられました。中央の「都督府古址碑」(ととくふこしひ)は乙金村(現大野城市)の大庄屋の高原善七郎が明治4(1871)年自費で建てられました。右の「大宰府碑」は亀井南冥の文章を記し大正3(1914)年に建てられました。
正殿跡の説明板には以下のように記されてます。
正殿跡とは
大宰府の長官である師(そち)が政務を執り、これと関わる儀礼や儀式で最も重要役割を果たした場が正殿である。大宰府は中央政府の縮小版として西海道(九州)の管内諸国を統轄(とうかつ)していた。宮都での元旦拝賀を参考にすれば、大宰府でも元旦には管内諸国から国司(こくし)らが集い、正殿に座した師に拝賀する儀礼が行われたと思われる。このように正殿はその政治的秩序を保つための威厳に満ちた建物だったことだろう。
発掘調査でわっかたこと
政庁の建物群は3期(Ⅰ~Ⅲ期)にわたって変遷し、Ⅰ期は掘立柱建物、Ⅱ・Ⅲ期は礎石建物が採用され、中・南門の建物についてはⅡ期とⅢ期がほぼ同じ規模と構造だったことが判明している。近年の調査では、正殿も他と同様にⅡ・Ⅲ期の基礎(建物の基礎)が同一規模で建て替えられていたことが明らかになった。この建て替えの原因となった941年の藤原純友の乱による火災を示す焼土や炭をⅢ期整地層の下部で確認した。さらに、基礎の下層でⅠ期の掘立柱建物・柵・溝等を発掘した。これら建物群はいずれも規模が大きく整然と配置され、周囲を柵と溝で区画していることが判明した。すでにⅠ期の段階から儀礼空間を意識した配置だったと考えられる。
正殿の建物
残された礎石からⅢ期の建物は正面7間(28.5m)、奥行4間(13.0m)の平面規模がわかっている。また基礎の正面と背後には3つの階段が取り付き、正面を除いた周囲の礎石には壁を設けるための加工が施してある。柱は直径が約75cm、これをのせる礎石は巨大で、しかも円形の柱座を3重に削って装飾している。こうした調査成果と正殿の役割から考えると、建物は寄棟(よせむね)の大屋根と庇(ひさし)を別構造で組み合わせ、朱塗の柱と白壁で仕上げた外観、そして内部を吹抜けのホールのような空間にした建築だったことが想定できる。屋根には左のような恐ろしい形相の鬼瓦が飾られていた。
平成12年3月31日
(財)古都大宰府保存協会
九州国立博物館設置促進財団
その後の大宰府
大宰府政庁が衰退してからも、太宰府の政治的重要性は変わりませんでした。平清盛ら平家が太宰府との結びつきを深めたり、鎌倉幕府御家人・武藤氏(少弐氏・しょうにし)が下向して活動の本拠地としました。また、南北朝時代から戦国時代にかけては、幾度となく合戦の舞台となりました。
下の動画では大宰府政庁跡、坂本八幡宮、大宰府展示館等を紹介してます。
このブログは(財)古都大宰府保存協会のホームページ及び大宰府政庁跡文化遺産散策マップを参照してます。
アクセス
【電車】西日本鉄道 都府楼前駅から徒歩で約15分
【バス】太宰府市コミュニティまほろば号で大宰府政庁前で下車。まほろば号は市内の公共施設や観光名所、旧跡、駅などを循環しているバスです。
【車】 九州自動車道太宰府ICから約5分
【駐車場】普通車40台(8:00~17:30)施錠有
最後に
現在の大宰府政庁(都府楼)跡の周辺に広がる景観は、多くの人による遺跡保護への強い思いと努力と行動によって保たれてきました。令和3年3月3日に、大宰府跡は史跡100年という節目を迎えます。これまで多くの先人達によって受け継がれてきた「古都大宰府を守る」という思いが、これからも受け継がれていくことを願います。