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鴻臚館跡展示館の遣唐使、鴻臚館跡の解明、8世紀のトイレ跡等を解説!

福岡の博物館ー鴻臚館跡展示館2 遣唐使、鴻臚館跡の解明、8世紀のトイレ跡

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  はじめに

今回は鴻臚館跡展示館の2回目の記事です。前回の記事はこちらです。

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 下の写真は、鴻臚館跡展示館案内板です。

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[目次]

 

遣唐使

 遣唐使(けんとうし)とは、日本が(中国)に派遣した使節です。遣唐使船には、多くの留学生等が同行し往来して、政治家・官僚・僧・芸術工芸など多くのジャンルに人材を供給しました。その中には、空海、最澄、菅原道真等がいました。

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遣唐使船(模型) 平安時代(9世紀)

下の説明板は、遣唐使の概要遣唐使船の航路について説明してます。

遣唐使の概要

遣唐使は630(舒明2)年8月に犬上御田鍬(いぬがみみたすき)らを最初に、894(寛平6)年に菅原道真の建議(けんぎ)で廃止されるまで20回計画され、うち15回が派遣された。

造船・航海術が未熟な当時は、東シナ海を横断することはきわめて危険で、8回の遭難記録がある。遭難覚悟の厳しい航海であった事を示す。

初め2隻の航海であったものを4隻に増やし、出発日をそれぞれずらしたのも、遭難を避け、とにかく1隻でも中国に着きたいという配慮であった。

遣唐使船の航路

遣唐使船の三つの航路

1. 北路 博多→壱岐→朝鮮半島西岸北上→黄海→山東半島上陸

●7世紀の遣唐使が続行

2. 南路 博多→五島列島西端→揚子江河口の揚州

 「遣唐使は値嘉島の合子田浦又は川原の浦より出発し、美弥良久(五島三井楽)から西を指して渡る 「肥前国風土記」より

●732(天平5)年の遣唐使は南路の可能性がある。

●777(宝亀8)年の遣唐使は確実に南路を航行している。

3. 南島路 九州西岸南下→南西諸島→揚子江河口の揚州

●8世紀代に航路開発。主に復路(帰路)に利用。

開発理由

① 新羅との関係が悪化、朝鮮半島経由が危険となった。

② 当時のわが国の領土開発に対する意欲が高まった。

・702(大宝2)年、中国に対して初めて「日本」と名のる。

・735(天平7)年、「南島に島名、停泊所、水の便、国までの距離などを記した碑」を設けるように大宰府に命ず。

 遣唐使船の三つの航路の地図・遣唐使一覧表

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北路 博多→壱岐→朝鮮半島西岸北上→黄海→山東半島上陸

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南路 博多→五島列島西端→揚子江河口の揚州

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南島路 九州西岸南下→南西諸島→揚子江河口の揚州

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遣唐使一覧

遣唐使は630(舒明2)年を最初に、894(寛平6)年に菅原道真の建議(けんぎ)で廃止されるまで20回計画されました(諸説あり)。

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遣唐使の構成

下の説明板では、遣唐使船の乗員の構成、人数、四等官、遣唐使船のイメージ画像等が載ってます。

遣唐使は、大使・副史をはじめに留学生、学問僧など約400~500人が4隻の船に分乗し、出発した。

四等官について

四等官(しとうかん)は、にならい律令制における各官司の中核職員が4等級で構成されていたことを表す用語で、律令制を支える精緻な官僚システムの基礎制度として機能しました。

四等官制は、長官(かみー例:大使)・次官(すけー例:副使)・判官(じょう)・主典(さかんー例:録事)の4等級から構成されており、令(法律)において、それぞれの分掌事務が定められていました

遣唐使4隻のイメージ画像

遣唐使船航路図

 

 中山平次郎博士の業績

 中山平次郎博士とその業績

 下の説明板では、中山平次郎博士の業績、略歴について説明してます。

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 中山平次郎博士は九州帝国大学医学部教授として優秀な医学者を育てるかたわら、考古学にも深い関心を寄せられ、大正から昭和初期に、九州における考古学の先駆者として活躍、わが国の考古学史上に大きな足跡を残された。
 金印「漢委奴国王」の出土地比定、今山遺跡の石斧製作の分析、青銅器の研究などは、北部九州の弥生文化を明らかにする上で、たいへん重要な成果である。さらに考古学的研究を適して大宰府鴻臚館を解明し、中世博多を現代によみがえらせ、元冠防塁の調査と保存に力を尽くされた博士の業績は、本市の文化財保護、都市づくりの理念など多くの面に生かされている。

●中山平次郎博士年譜

明治4年(1871) 京都市上京区に生まれる。
明治29年(1896) 東京帝国大学医学部に入学。
明治36年(1903) 医学研究のため、ドイツ・オーストリアへ留学。
明治39年(1906) 京都帝国大学福岡医科大学(現在の九州大学医学計)の教授となる。
昭和4年(1929)福岡県史蹟名勝天然記念物調査委員となる。
昭和25年(1950)西日本文化賞を受貧。
昭和31年(1956)逝去。(亨年85歳)

 鴻臚館の解明

 下の説明板では、中山平次郎博士による鴻臚館が福岡城内にあった根拠を説明してます。

中山平次郎博士は次の4つの論点から鴻臚館が福岡城内にあったと考えた。
① 736(天平8)年に新羅へ派遣された人々が詠(うた)った和歌からみて、筑紫館は志賀島と荒津浜を同時に見渡せ、蝉時雨(せみしぐれ)や荒津の波音が聞こえる小高い場所にあった。
② 869(貞観11)年の新羅海賊船博多湾侵入事件後、鴻臚館に付設された「博多警固所(けごしょ)」は、今の中央区警固に近い。
③ 11世紀はじめの刀伊入冠(といにゅうこう)事件の記事からみて、警固所が福岡城方面の小高い場所にあった。
④ 福岡城内で、大量の古代の瓦、青磁を発見し、ここに瓦葺(かわらぶ)きの壮大な建物があった。
 京都(平安京)、大阪(難波)、福岡(筑紫)の3カ所の鴻臚館のうち筑紫の鴻臚館の場所については、江戸時代以来、博多官内町(今の中呉服町周辺)説が有力であったが、博士の福岡城内説によって、みなおされることとなり、大きな反響を得た。1926(大正15)年のことである。
 その後、この鴻臚館福岡城内説は1987(昭和62)年末の調査によってほぼ確定した。

  これまでの発掘調査

下の説明板 では、鴻臚館の40数年にわたる11次の発掘調査の状況を説明してます。

福岡城内での鴻臚館の発掘調査は1951年~1994年までの11次の調査が行われている。平和台野球場南側部分では、奈良時代から平安時代の鴻臚館の移り変わりが明らかになるとともに、中国製の陶磁器などの国際色豊かな遺物が数多く出土した。

下の図は、「展示館・展示館付近の奈良・平安時代の鴻臚館跡」の図です。

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鴻臚館の発見

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1987年末に平和台野球場外席スタンド改修工事にともなう調査が行われ、初めて鴻臚館跡が考古学的に確認された。

国際色豊かな遺物が出土

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8世紀~11世紀頃の中国、朝鮮、イスラムなどで作られた陶磁器や、ガラス器などが出土し、鴻臚館貿易の実態が明らかになった。

鴻臚館礎石建物の解明

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9世紀半ば頃の建物が南北に2棟並んでいることが確認された。この建物は、接待や宿泊の場として利用されたものと考えられた。

トイレの発見

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わが国で初めてトイレ遺溝が見つかった。トイレからはトイレットペーパーとして使われた大量の籌木や、木簡が出土。男女別々に使用された可能性がある。

筑紫館掘立柱建物の発見

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”┓”状に並ぶ4棟の建物を検出。筑紫館の段階で数回の建て替えがあったことがわかった。

筑紫館の東門の発見

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法隆寺東大門とほぼ同じ大きさの八脚門という格式の高い門跡が確認された。

筑紫館塀の確認

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東西に75m、南北に58mの長方形区画の周囲に塀をめぐらせていたことが判明。東門と同様に基礎は版築工法による。

大規模な造成跡の確認

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 筑紫館の造営に先だって尾根を削り、谷を埋めるなど大土木工事の跡が見つかった。 (白線は盛土の跡)

鴻臚館で食べられていた食材を使った料理

下の説明板では、いくつかの資料を参考にした平安時代の鴻臚館の料理について説明してます。

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鴻臚館御膳の再現

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鴻臚館南館Ⅱ期(8世紀)のトイレ遺構から検出された食物関連資料と『類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)』(平安時代後期)所載の宴会料理を参考に鴻臚館時代(平安時代)の料理を組み立てた。花粉分析の結果からは夏に花期を迎えるものが多かったため、盛夏から秋の食膳をイメージ。

 奈良時代のトイレ

 下の説明板では、奈良時代のトイレの作り、食べ物、トイレットペーパーとして使われていた細い棒(籌木:ちゅうぎ)等について説明してます。

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 鴻臚舘ではわが国で最初に古代のトイレが発見された。トイレは、奈良時代前半期のもので、地面に四角形の深い穴を掘って板を渡した汲み取り式である。
 土中からは、植物の種や花粉、寄生虫卵、ハエの幼虫、魚の骨などが出てきた。これらから鴻臚館の人たちは、川魚や調理が不十分な肉などを食していたことや、虫下しに効果のある瓜の種を飲んでいたことが推定される。
 用を足した後は、当時のトイレットペーパーとして、細い棒(籌木(ちゅうぎ))が使われていた。

鴻臚館跡のトイレ(南から) 

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藤原京跡のトイレ遺構復元図と「慕帰絵詞」を参考にした想像図 

 

下の写真は、トイレ遺構籌木(ちゅうぎ)、植物の種等の写真、説明板です。

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下の写真は、トイレ遺構籌木等の出土状況です。

下の写真で、上の段は種子で、左から棗(ナツメ)、茄子(ナス)、胡麻(ゴマ)、山椒(サンショウ)、朝鮮五葉(チュウセンゴヨウ)です。

真ん中の段は、左から花粉蕎麦(ソバ)、大葉子(オオバコ)、吾亦紅(ワレモコウ)、水葵(ミズアオイ)、右端は寄生虫鞭虫卵(ベンチュウタマゴ)です。

下の段は、寄生虫で左から有・無鉤条虫卵ユウ・ムコウジョウチュウラン)、肝吸虫卵(カンキュウチュウラン)です。

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下の写真は、奈良時代(8世紀)に、トイレットペーパーとして、使われていた籌木(ちゅうぎ)です。

下の写真は、トイレ遺構の土の中から出たもので、左からヤマモモ(ウリ)、ツタ巻貝のヘタ獣骨片(じゅうこつへん)です。

トイレ遺構内の土の中には、寄生虫や植物の種、獣骨、魚骨などが含まれていることがわかりました。このことから、当時の食べ物の種類、調理法などが推定できるようになりました。

  アクセス

 

〒810-0043 福岡県福岡市中央区城内1-4

●地下鉄をご利用の場合

「赤坂」下車 徒歩約7分

●バスをご利用の場合

「福岡城・鴻臚館前」「福岡市美術館東口」「大手門・平和台陸上競技場入口」下車
徒歩約5分〜8分

「赤坂3丁目」下車 徒歩約10分

●車をご利用の場合

都市高速「天神北ランプ」「西公園ランプ」より約3キロ圏内に
駐車場あり

利用案内

 開館時間:9:00~17:00(入館は16:30)

休館日   :12月29日~1月3日(通常)

利用料金:無料

TEL   :092-721-0282

 

最後に

次回も鴻臚館跡展示館の記事になる予定です。よろしかったら覗いて下さい。