福岡の万葉歌碑ー大宰府政庁跡周辺の万葉歌碑
プロローグ
先日、「令和ゆかり」の坂本八幡宮にお参りし、大宰府政庁跡、大宰府展示館に行った際に周辺の万葉歌碑を見て歩きました。
あらためて思ったのは福岡県でも太宰府市は万葉歌碑が多いということです。
8月24日放送の「世界ふしぎ発見!」では、「万葉集〜千年の時を超える日本人らしさの秘密」をテーマに、太宰府天満宮にもお越しいただきました。皆さまぜひご覧下さい。#太宰府天満宮 #天神さま #梅 #梅花の宴 #dazaifutenmangu https://t.co/ijeI5sEWTk
— 太宰府天満宮【公式】 (@dazaifutenmangu) August 22, 2019
[目次]
万葉集と大宰府
万葉集
『万葉集』は8世紀後半頃に成立した日本最古の歌集といわれ、約4500首の歌が収められています。
天皇・皇族をはじめ、貴族など上流階級の人々だけではなく、防人(さきもり)や農民まで、幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められており、日本の豊かな文化と長い伝統を象徴する歌集です。
『万葉集』を編纂したのは、「梅花の宴」を開催した大伴旅人(おおとものたびと)の息子・大伴家持(おおとのやかもち)と言われてます。
宴で詠まれた歌をはじめ、九州にまつわる歌が300首以上収められており、家持が少年時代を過ごした大宰府の風景が描かれている歌もあります。
下の動画は「万葉集の概略」と「万葉ファンが選んだベスト10の歌」が説明されてます。
万葉筑紫花壇
奈良時代のはじめ、『万葉集』の代表的歌人である大伴旅人や山上憶良など数多くの宮廷歌人がが「遠の朝廷(とおのみかど)」と呼ばれた大宰府に赴任しました。
730年、太宰帥・大伴旅人の邸宅で梅の花を題材に歌を詠んだ「梅花の宴」をはじめ、彼らがこの地で残した数々の歌は「万葉筑紫花壇」とも称されてます。
大宰府政庁跡周辺の万葉歌碑は大宰府万葉会をはじめとする関係者の尽力で建立されてます。
#大宰府政庁 で #大宰府万葉会 の皆さんが #梅花の宴 を再現しています#ハロー令和 pic.twitter.com/Ix92QKrgyY
— BeautifulHarmony (@beautifulharm11) May 1, 2019
大宰府政庁跡周辺の万葉歌碑
下の地図は大宰府政庁跡周辺のウォークマップです。蛍光ペンの〇印が付き、英語の大文字で表示してる場所が万葉歌碑です。
朱雀大橋近くの万葉歌碑Aー柿本人麻呂
大君(おおきみ)の遠の朝廷(みかど)と
あり通(かよ)ふ 島門(しまと)をみれば
神代(かみよ)し思ほゆ
万葉集巻三・三〇四 柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)
【大意】
大君の遠く離れた政庁として通い続ける海峡を見ると神代の昔が思われる
【解説】
柿本人麻呂(662~710)は飛鳥時代の歌人。山部赤人と共に歌聖と呼ばれてます。柿本人麻呂が筑紫国へ行く時に、海路において作った歌です。
「大君」は天皇です。「遠の朝廷」とは、都から遠く離れた朝廷の意で、大宰府のことをさします。「島門」は島と島、または島と陸地の間の狭い水路です。「神代」とは、日本神話において神々が支配していた時代という意味です。
人麻呂は九州への海路、明石海峡など瀬戸内の海狭を見て、神代の昔から大宰府政庁への往来にこの海峡を通ってきたのだという感慨をいだきました。
人麻呂の大宰府への足跡が知られる一首です。
万葉歌碑の近くには大宰府朱雀門礎石(推定)が見られます。礎石の大きさは横2.42m×縦1.82m、厚さ1.3m、重さ約7tです。礎石の上面には柱を建てる経66cmの円形の柱座が造りだされています。
都では大内裏の南正面の正門は「朱雀門」と呼ばれていました、この礎石の発見により大宰府でも、この付近に朱雀門があったと考えられています。
坂本八幡宮内の万葉歌碑Bー大伴旅人
わが岡に さ男鹿来鳴く 初萩(はつはぎ)の花嬬(はなずま)問いに 来鳴くさ牡鹿
万葉歌巻第八・一五四一 大宰帥(だざいのそち)大伴旅人(おおとものたびと)
【大意】
私の住む岡に牡鹿が来て鳴いている。今年初めての萩の花が咲き、牡鹿がやってきて妻問いをしていることよ。
【解説】
大伴旅人(665~731)は,、飛鳥・奈良時代の歌人・公卿です。万葉集には旅人の和歌が78首選出されてます。旅人は酒をこよなく愛しました。大伴家持(おおとものやかもち)は息子です。
坂本八幡宮あたりは、大宰帥大伴旅人の邸跡と伝えられています(諸説あり)。
旅人邸は、「万葉集の華」というべき梅花の宴が開かれた場所としてよく知られています。赴任後間もなく妻を亡くした旅人の暮らしは心淋しいものでした。
「花嬬」は萩の花です。
萩の花が咲き初める初秋、牡鹿が牝鹿を求めて鳴く求婚の甲高い声に、旅人は妻を想う自分の心を重ねずにはおられませんでした。
坂本八幡宮は、元号「令和」のゆかりの地として注目されてます。祭神は応神天皇で戦国時代の勧請と伝えられてます。
元号「令和」の典拠は万葉集の「梅花の歌 序文」で す。元号「令和」の碑が坂本八幡宮に令和元年10月に建立されました。
この碑文の書は、天皇陛下御即位に伴い改元された新元号発表時の菅(すが)官房長官が掲げていた「令和」の揮毫者である内閣府辞令専門職茂住修身(もずみおさみ)(雅号菁邨・せいそん)氏によるものです。
坂本八幡宮、令和の碑について詳しく知りたい方は下の記事をお読み下さい。
坂本八幡宮の東側の万葉歌碑Cー大伴旅人
大宰帥大伴卿(だざいのそち・おおともきょう)
報凶間歌(きょうもんにこたふるうた)
余能奈可波(よのなかは)
牟奈之母乃等(むなしきものと)
志流等伎子(しるときし)
伊与余麻須万須(いよよますます)
加奈之可利家理(かなしかりけり)
世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり
万葉集巻五・七九三 大宰府(だざいのそち)大伴旅人(おおとものたびと)
【大意】
世の中はむなしものだとつくづく知る時、いよいよますます悲哀の感を新たにすることだ。
【解説】
大宰帥は大宰府(地方行政機関)の最高責任者の長官です。卿は律令制下における官職で省の長官の地位です。
詞書きに報凶問歌と有りますが、これは天武天皇の皇女、田形皇女の訃報を指します。凶問とは死去の知らせです。「報(こた)ふる」とは、訃報を知らせてくれた使者に対して歌を詠んだということです。
この歌は巻五冒頭の大伴旅人の歌です。
旅人は大宰府赴任後妻を亡くし、不幸(田形皇女の訃報)を重ねました。旅人が世の無常を知った悲しみの中から、旅人の風流は生まれてゆきます。そして、万葉筑紫花壇は、この一首から始まります。
坂本八幡宮の南側の万葉歌碑Dー紀男人
正月(むつき)立ち 春の来たらば
かくしこそ 梅を招(を)きつつ 楽しき終(を)へめ
万葉集巻五 八一五 大弐(だいに) 紀卿(きのきゃう)
【大意】
正月になり春が来たなら、このように梅を招いて楽しい日を過ごそう。
【解説】
紀男人(きおのひと・682~738)は飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族。名は雄人とも記される。大納言・紀麻呂の子。官位は正四位下・右大弁。
この歌は元号「令和」で注目された「梅花の歌」(元号「令和」の典拠は梅花の歌の序文です)三十二首のうちのひとつです。
万葉集の中でもっとも華やかな「梅花の宴」が天平二年(730)正月十三日、大宰帥大伴旅人邸で盛大に催されました。
九州管内諸国の官人三十二名は中国渡来の梅を題材に歌を詠んで、春の一日を楽しみました。
この歌は宴の開始にあたり、主賓大弐紀卿のあいさつとして、梅を客人のように見立てて歓迎したお祝いの歌とされました。大弐は大宰府の次官のことで紀卿は紀男人(きのをひと)です。
大宰府政庁跡前の万葉歌碑Eー大伴旅人
やすみししわご 大君(おおきみ)の食国(をすくに)は
倭(やまと)も此処(ここ)も同(おや)じ とそ思う
万葉集巻六 九五六 大宰帥(だざいのそち) 大伴旅人(おおとものたびと)
【大意】
私がお仕えする大君(天皇)が、安らかにお治めるになる国は、中央の大和も、ここ大宰府も同じ、異なることはないと思っている。
【解説】
「やすみしし」は安らかにで、「大君」は天皇です。「食国」は天皇が治めになる国です。「倭」は大和で、「此処」は大宰府です。
大宰帥として赴任したばかりの大伴旅人にむかい、少弐(大宰府の次官)石用足人(いしかわのたりひと)が
さす竹の大宮人の家と住む 佐保の山をば思ふやも君 [大意:大宮人が家として住んでいる平城(奈良)の佐保の山を、あなたはなつかしくお思いになるのでしょうか]
と問かけたのに対して、旅人が和えた歌です。ここでは旅人は、遠の朝廷の大宰府の長官としての気概を詠っています。
大宰府政庁とは七世紀後半に九州の筑前国に設置された地方行政機関の中枢施設です。
大宰府政庁について詳しく知りたい方は下の記事をお読み下さい。
大宰府展示館のそばの万葉歌碑Fー小野老
小野 老(をののをゆ)
あをによし寧楽(なら)の京師(みやこ)は
咲く花の薫(にほ)ふがとく
今さかりなり
万葉集巻三 三二八 大宰少弐小野老朝臣
【大意】
奈良の都は、におうように花が美くしく咲き、今まっ盛りである
【解説】
小野老(生誕不明、死没737)は、奈良時代の貴族・歌人。官位は従四位下・大宰大。大宰少弐小野老朝臣(あそみ)が天平元年(729)大宰府に着任した時、宴席で披露した歌とされている。
揮毫者の犬養孝(いぬかいたかし)氏は万葉風土の大切さを訴え、若い頃から幾十度となく大宰府政庁跡の巨大な礎石の前にたたずんでは、古代の絵巻を繰り広げてくれる「遠の朝廷(とおのみかど)」を偲び、都から離れた官人の心情を思いやられた。
碑文は昭和二十四年に作られた「萬葉百首(まんようひゃくしゅ)」のかるたから拡大して刻した。
大宰府展示館は大宰府政庁跡の隣にあり、(公財)古都大宰府保存協会が運営する博物館です。詳しく知りたい方は下の記事をお読み下さい。
大宰府学校院跡の万葉歌碑Gー山上憶良
子等を思う歌
瓜食(うりは)めば 子ども思はゆ
栗食(くりは)めば まして偲(しの)はゆ
いづくより 来たりしものそ
まなかひに もとなかかりで 安眠(やすい)しなさぬ
万葉集巻五 八〇二
反歌
銀(しろかね)も 金(くがね)も玉(たま)も 何せむに
まされる宝 子にしかめやも
筑前国守 山上憶良
万葉集巻五 八〇三 筑前国守 山上憶良
【大意】
瓜を食べると子供のことが思われる。栗を食べると一層子供のことが偲ばれる。子供はどこから来たものであろうか。眼前にむやみにちらついて、安眠させることがない。
銀も金も玉も子供の愛に比べれば、何になろうか。どんな秀れた宝も、子供には及ばない。
【解説】
山上憶良(660~733・やまのうへのおくら)は、奈良時代初期の貴族・歌人です。名は山於憶良とも記される。姓は臣。官位は従五位下・筑前守。
山上憶良が筑前国守(ちくぜんのくにのかみ)として国内を巡行し、神亀(じんき)五(728)年七月二十一日に嘉摩(かま)郡で選定した歌六首(八〇〇~八〇五)の中の二首である。
始めに序文があり、釈迦(しゃか)の「衆生を等しく思うことラゴラ(釈迦の子)のごとし」という一句を引用して、子を思う親心を歌った万葉集の中でも特異な歌です。
大宰府学校院とは、地方の官人養成機関です。
観世音寺にある万葉歌碑Hー沙弥満誓
しらぬいの 筑紫の綿は 身につけて
いまだは著(き)など 暖かに見ゆ
渉弥満誓(しゃみまんせい)
万葉集巻三 三三六 渉弥満誓
【大意】
筑紫の真綿は、まだ身につけて着てみたことはないけれど、見るからに暖かそうであるよ
【解説】
この歌は渉弥満誓が筑紫の綿について詠んだ一首。「しらぬいの」は筑紫につく枕言葉。
渉弥満誓(しゃみまんせい・生誕、死没不明)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族・僧・歌人。官位は従四位・右大弁。
俗名は、「笠朝臣麻呂(かさのあそみまろ)」といい、美濃(みの)・尾張(おわり)の国守として、木曽路を開くなど手腕をふるった有能な官史でしたが、太上(元明)天皇の病気平癒を祈って出家し、養老七年(723)、造観世音寺別当(ぞうかんぜおんじべっとう)として赴任しました。
真綿が古代筑紫の名産であったことは、『続日本紀(しょくにほんき)』や平城京出土の木簡(もっかん)からも知らてれます。
観世音寺は、太宰府市観世音寺五丁目にある天台宗の寺院。山号は清水山。本尊は聖観音。開基は天智天皇。九州西国三十三箇所第三十三番礼所。
九州を代表する古寺で、造営開始は七世紀後半にさかのぼる。奈良の東大寺・栃木の下野薬師寺とともに「天下三戒壇」の一つに数えられる。
太宰府市役所の万葉歌碑 Iー山上憶良
春さればまづ咲く宿の
梅の花獨(ひと)り見つつや
はる日暮さむ
筑前守(ちくぜんのかみ)山上憶良
万葉集巻五 八一八
【大意】
春になると、真っ先に咲くこの家の庭の梅の花を、ただ一人で見ながら春の長い日を暮らすことであろうか。
【解説】
天平二年(七三〇)正月十三日、大宰府大伴旅人邸で開かれた梅花の宴は、中国渡来の梅をテーマに、中国風の詩作の宴を導入しながら和歌を詠むという、海外への門戸である大宰府の文化を象徴する出来事でした。
大宰府と大宰府管内九国三島の官人三十二人が集ったこの宴で、筑前守山上憶良は、四番目に詠っています。社会派と評され、人事を詠むことの多い憶良らしい歌です。
太宰府市は、福岡県の中西部、筑紫地域に位置する市です。かつて、九州地区の統治組織「大宰府」が置かれた事により栄えました。そして、太宰府天満宮や多くの特別史跡・史跡があり、毎年1000万人余りもの観光客が訪れる観光都市です。
このブログを作成するにあたっては『大宰府と万葉の歌』(2020年1月13日発行、著者:森弘子、海鳥社)、大宰府展示館のリーフレット等、古都大宰府保存協会のホームページ、「万葉集入門」のサイト等を参照してます。
大宰府政庁跡へのアクセス
【電車】西日本鉄道 都府楼前駅から徒歩で約15分
【バス】太宰府市コミュニティまほろば号で大宰府政庁跡前で下車。まほろば号は市内の公共施設や観光名所、旧跡、駅などを循環しているバスです。
【車】九州自動車道太宰府ICから約5分
【駐車場】普通車40台(8:00~17:00)施錠有り
最後に
日本遺産『古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~』に認定された太宰府市には、いにしえの歌人たちが詠んだ歌を記した万葉歌碑が数多くあります。太宰府市全体で40基以上あります。
太宰府市に訪れて万葉歌碑を巡りながら散策してみてはいかがでしょうか!