かざもりのブログ

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鴻臚館跡展示館 近年の発掘調査とその成果、東門と塀、復元建物、遺構展示、鴻臚館遺跡模型等を解説!

福岡の博物館ー鴻臚館跡展示館3 

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はじめに

 今回は鴻臚館跡展示館の3回目の記事です。1・2回の記事はこちらです。

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 下の写真は、鴻臚館跡展示館案内板です。

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[目次] 

 お名前.com

 鴻臚館跡 近年の発掘調査とその成果

下の説明板では、各年度の発掘調査の成果を具体的に説明してます。

鴻臚館跡-南館と北館の発見
1994年度から2003年度にかけての調査により、展示館北側にある旧平和台球場跡の様子が明らかになってきました。
この結果、東西に伸びる谷の存在、南北に同規模の施設が営まれていたことなどが判明しました。近年は「鴻臚北館」と考えられる遺構を中心に、調査が進展しています。

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① 第Ⅰ期掘立柱建物(2004年度調査)
 建物1棟(東西2間南北4間)と、それを囲む塀の柱穴を発見しました。

 ② 北館トイレ(2000年度調査)
 南館と同時期(8世紀前半)の、北館に伴うトイレ遺構です。深さは約360cmに及びます。

③ 陸橋埋立(1999年度調査)
 東西の谷の奥を埋め立ててせき止め、南館と北館をつないだ跡を確認しました。
 通路として機能したと思われます。

④ 石垣/第Ⅱ期石垣(2002年度調査)
 8世紀前半のもので、東西長さ23m分を確認しました。高さ4.2mの石垣です。さらに、東西に長く続くと思われます。

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 礎石建物(2000年度調査)
 3mおきに立てられた柱の11間分を確認しました。東西に長くのびる建物の礎石をすえた跡です。8世紀後半の築造と思われます。

 ⑥ 石垣/第Ⅰ期石垣(2001年度調査)
 7世紀後半の頃の築造と思われます。東辺、南辺を発見しました。

⑦ 北館東門と布掘建物(1999年度調査)
 8世紀後半の門と塀です。南館と同様に、東門の跡と見られる柱穴を発見しました。

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土層剥ぎ取リ(どそうはぎとり)

下の写真では、古代の遺構を記録する方法の「土層剥ぎ取り」について説明してます。

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 古代の人々の残した生活の跡(遺構)をそのまま記録する方法に「土層剥ぎ取り」という手法がある。この方法は、剥ぎ取りたい面に合成樹脂を塗り、その上から布を貼り付け補強し、固まった後、土層そのものを薄く剥ぎ取る。
 この方法によると、調査終了後に土質などを実感しながら再検討できる利点がある。
 鴻臚舘跡の調査でもこうした長所を生かして、筑紫館の東門と塀の基礎部分の土層を剥ぎ取っている。

東門と塀

東門復元図(とうもんふくげんず)奈良時代

下の東門復元図には、「土層剥ぎ取り部分」があります。

 下の写真は、筑紫館東門の基礎堀の「土層剥ぎ取り部分」です。「土層剥ぎ取り部分」には、左より「筑紫館東門の基礎堀」、「柱の跡」、「地山」、「柱の跡」の札が付いてます。他の札には、「展示品にはさわらないでください」と記されてます。

下の写真は、「柱の跡」の拡大写真です。札には、「直径が約40cmの円柱」と記されてます・

下の写真は、「 地山(じやま)」の拡大写真です。札には、「頁岩(けいがん:薄く割れやすい性質をもつ泥岩が風化し、やや軟弱になっています。」と記されてます。

塀復元図(へいふくげんず)

下の塀復元図には、「土層剥ぎ取り部分」があります。

下の写真は、筑紫館塀の基礎堀の「土層剥ぎ取り部分」です。「筑紫館塀の基礎堀」、「地山」、「柱の跡」、「版築の跡」、「布堀り」、「展示品にはさわらないでください」の札が付いてます。

 下の写真は、「 地山(じやま)」の拡大写真です。札には、「頁岩(けいがん:薄く割れやすい性質をもつ泥岩が風化し、やや軟弱になっています。」と記されてます。

下の写真は、「柱の跡」の拡大写真です。札には、「直径が約40cmの円柱」と記されてます。

下の写真は、「版築(はんちく:土を建材に用い強く突き固める方法)の跡」の拡大写真で、札には、「柱の根固めのために埋めた土をつき固めた跡が何枚もの層になってます。」と記されてます。

下の写真は、「布堀り(ぬのぼり:壁や土台の下となる部分を溝状に細長く掘ること)」の拡大写真で、札には「一定の間隔(2.4m)で柱を立てるために溝状に掘っています。」と記されてます。

復元建物

鴻臚館跡展示館の出入り口から中に入ると正面に復元建物が見えます。この復元建物は、宿坊(しゅくぼう:宿泊施設)または回廊(かいろう:廊下)と推定される建物です。

斜めから見る

反対側から見る

 礎石建物(そせきたてもの)

復元建物は、「礎石建物」です。下の説明版は、礎石建物の説明と復元建物の大きさを説明してます。

礎石建物は、大きな石を地面に据(す)え、その上に柱を建てたものである。屋根は瓦で葺(ふ)いていた。この建物は、東西に廂(ひさし)を持つ大型の建物で、長さ(桁行:けたゆき)18m以上、巾(梁行:はりゆき)12mを測る。

 復元建物の位置

下の説明板は、鴻臚館の用途等を説明してます。

鴻臚館には、外国からの使節を応接したり、宿泊する建物などのほかに 施設を管理する役人や、 警備する人たちの建物、 食料や器物の倉庫などの施設があったと考えられます。
 復元建物は、宿房(しゅくぼう)または回廊(かいろう)と推定される建物の一部です。

 

建物の部分名称

下の写真の英字(A~X))の表記は、建物の部分名称を説明してます。

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棟瓦(むねがわら)とは、瓦屋根の頂上部分にある瓦を指します。

丸瓦(まるがわら)とは、半円筒形の瓦で 本瓦葺(ほんかわらぶ)きで平瓦と組み合わせて用います。

平瓦(ひらがわら)とは、反りのついた板状の瓦で、丸瓦と組み合わせて用います。

葺き土(ふきど)とは、瓦をのせる粘土の層です。上の写真では、「葺き土」は瓦に隠れているので見えません。

垂木(たるき)とは、屋根の野地板を支えて屋根を構成する重要な建材のひとつです。

F 棟木(むなぎ)とは屋根をつくるために、 屋根の一番高い位置に取り付けられる建材です.

 G 叉首(さす)とは、棟木を受けるために合掌形に組む建材です。上の写真では、建物の中にあるので見えません。

H (こうりょう)とは、梁(はり)の一種で、やや反りを持たせて造った化粧梁をいいます

I 丸桁(まるげた)とは、垂木を支える桁で、最も軒先近くにあるもの。 奈良時代には断面が円形の材が用いられた。

J 舟肘木(ふなひじき)とは、船形の肘木で、柱の上に直接のせて軒桁を支える組物です。

K(ます)とは、柱の上部で軒桁を支える部位の名称です。

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丸瓦・平瓦・垂木・舟肘木・斗・頭貫

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垂木・丸桁・船肘木・斗・虹梁

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垂木・棟木・船肘木・斗・叉首・虹梁

L 頭貫(かしらぬき)とは、柱の一番上に用いられる貫(柱等の垂直材間に通す水平材)のこと。

M 内法長押(うちのりなげし)とは、開口部のすぐ上にある長押(柱を水平につなぐもの)のこと。

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斗・内法長押

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垂木・棟木・叉首・紅梁・丸桁・船肘木・斗・頭貫・内法長押

N(とびら)とは、建物や部屋などの入口などにつけられ、開口部を閉じたり、外部と遮断する機能をもつ部分です。

O 連子窓(れんじまど)とは、角材を縦または横方向にすき間をあけて並べた窓のことです。その角材が、連子子(れんじこ)です。下の写真では、扉の両脇に連子窓があります。

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扉・連子窓・連子子

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平瓦・丸瓦・垂木・丸桁・船肘木・頭貫・扉・連子窓・連子子

Q 土壁(つちかべ)とは、日本の伝統工法による土を用いて作られた壁です。 

R 木舞(こまい)とは、細い竹を縦、横に細かく架け渡し縄で編んだものです。

S 地覆(じふく)とは、建物などの最下部に、地面に接して取り付ける横木です。

T 地長押(じなげし)とは、柱の最下部をつないだ長押(和室の壁を囲む構造材で、役割は、柱と柱を水平に繋ぎ固定させること)です。

地覆石(じふくいし)とは、地面に接する部分に土台のように横に配される石です。

V 土間(どま)とは、家の中で床を張らず土足で歩く場所です。

W 基壇(きだん)とは、建物への水の浸入を防ぐため、水はけを良くするために平地の上に石を組み、 高くした部分です。

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基壇

X 礎石(そせき)とは、建造物の基礎にあって柱などを支える石です。

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礎石

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基壇・地覆石・地覆・地長押・土間・土壁・木舞

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土壁・木舞・地覆・地長押・地覆石・土間

 遺構展示

遺構展示では、礎石礎石据付穴基壇掘り込み地業江戸時代の井戸跡瓦溜土坑などの遺構の発掘された様子を見ることができます。

下の写真は、出入口付近から見た遺構展示です。

階段を降りて見る

反対側から見た遺構展示です。

斜めから見た遺構展示です。

奥から見た遺構展示です。

礎石(そせき:建造物の基礎にあって柱などを支える石)です。

礎石据付穴(そせきそえつきあな:礎石を据えるための穴)です。

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  基壇(きだん:建物への水の浸入を防ぐため、水はけを良くするために平地の上に石を組み、 高くした部分)です。

掘り込み地業(ほりこみじぎょう)

下の説明板では、掘り込み地業について、図を用いて説明してます。

掘込み地業とは、大型の建物を建てる際に、地面を深く掘り下げた後に土を少しずつ入れて突き固め(版築:はんちく)、地盤を強固なものにする工法である。

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掘込み地業

江戸時代の井戸跡

鴻臚館跡は、江戸時代は福岡城だったので、藩士の方が使用したであろう井戸跡です。

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江戸時代の井戸跡

 土坑(どこう:発掘調査などの際に確認される遺構のうち、人間が土を掘りくぼめてできたと考えられる穴)、瓦溜(かわらだまり:瓦がたまっていた所)

反対側から見る

 捨てられた陶磁器

展示館の奥に「捨てられた陶磁器」の展示があります。

 鴻臚館遺跡模型

下の写真は、鴻臚館遺跡模型です。数字(1~7)は遺構、英字(A~E)は展示館関連を表示してます。

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1 礎石建物2 雨落ち溝3 便所遺構(奈良時代)、4 (江戸時代)、5 排水溝6 布堀柵列7 福岡城土塁(江戸時代)、A 復元建物B 屋内遺構展示C 展示館部分D 屋外遺構表示E 現在地

下の写真は、鴻臚館遺跡模型の説明板です。

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1987(昭和62)年12月、平和台球場外野スタンドで鴻臚館の建物跡が発見された。以来発掘調査が進められ、鴻臚館の実態が徐々に明らかになりつつある。

福岡城や旧陸軍連隊の建物によって一部破壊されているが、瓦(かわら)葺(ふ)きの礎石(そせき)建物群や、それよりも古い掘立柱(ほったてばしら)遺構(柵列:さくれつ)などが見つかっている。

この模型は1988~90年の調査区域の遺構を調査成果に基づき作成したものである。

 下の写真は、「1 礎石建物A 復元建物B 屋内遺構展示C 展示館部分」を拡大してます。

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下の写真は、「2 雨落ち溝3 便所遺構(奈良時代)、4 (江戸時代)」を拡大してます。

下の写真は、「5 排水溝6 布堀柵列(細長く堀った柵の列)」を拡大してます。

下の写真は、「7 福岡城土塁(江戸時代)」の拡大写真です。土塁(どるい)とは、敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた、主に盛土による堤防状の防壁です。

 

下の動画は、鴻臚館跡展示館の奥から全体を撮影した動画です。

 

 アクセス

 

〒810-0043 福岡県福岡市中央区城内1-4

●地下鉄をご利用の場合

「赤坂」下車 徒歩約7分

●バスをご利用の場合

「福岡城・鴻臚館前」「福岡市美術館東口」「大手門・平和台陸上競技場入口」下車
徒歩約5分〜8分

「赤坂3丁目」下車 徒歩約10分

 

●車をご利用の場合

都市高速「天神北ランプ」「西公園ランプ」より約3キロ圏内に
駐車場あり

利用案内

開館時間:9:00~17:00(入館は16:30)

休館日   :12月29日~1月3日(通常)

利用料金:無料

TEL   :092-721-0282

最後に

 今回で鴻臚館跡展示館についての記事は終わりです。鴻臚館跡展示館は、改修工事等のため,2021(令和3)年2月14日から2021(令和3)年3月5日まで休館してました。

改修工事等の後、どのように変わったかを確認するため再び訪れましたが、殆ど変わってませんでした。

 

 

 

 最後までお読み頂きありがとうございます。