かざもりのブログ

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鴻臚館跡展示館ー鴻臚館の成り立ち、大宰府との関係、出土陶磁器等を解説!

福岡の博物館 ー鴻臚館跡展示館1 鴻臚館とは?・大宰府と鴻臚館・筑紫館と鴻臚館・出土陶磁器等

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[目次]

お名前.com  

プロローグ

先日、大濠公園近くに用事があったので、帰りに舞鶴公園内にある鴻臚館(こうろかん)鴻臚館跡展示館に行ってきました。前回は「国史 鴻臚館跡」を記載しました。

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鴻臚館跡展示館については、数回に分けて記載します。今回は、「鴻臚館とは?大宰府と鴻臚館筑紫館と鴻臚館出土陶磁器等」に関する説明板、展示物について記載します。

下の写真は、 鴻臚館跡展示館の出入り口です。

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下の写真は、出入口付近です。

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下の写真は、鴻臚館跡展示館案内図です。

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 鴻臚館とは?

下の説明板は、鴻臚館の由来、存続期間、施設用途、発掘出土品、国史跡の指定等について説明してます。

鴻臚館

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鴻臚館は、古代におけるわが国の外交施設であり、平安時代には福岡(筑紫:つくし)、大阪(難波:なにわ)、京都(平安京)の3ヶ所に置かれました。その跡が確かめられたのは雄一、福岡の鴻臚館だけです。
  福岡の鴻臚館は、7世紀後半~11世紀半ば(飛鳥(あすか)時代~平安時代)の約400年もの長い間存続しました。飛鳥・奈良時代には”筑紫館”(つくしのむろつみ)と呼ばれましたが、平安時代になると中国唐王朝において外交をつかさどる鴻臚寺(こうろじ)にならい、鴻臚館とその名を改めました。

鴻臚館は、奈良~平安時代の初めのころまでは、中国や新羅(しらぎ)からの外交使節をもてなしたり、わが国からの遣新羅使(けんしらぎし)や遣唐使(けんとうし)、留学生の宿泊地として利用されました。平安時代半ばからは、外国から商人が往来する交易の拠点施設となり、後の中世都市博多が生まれる先駆的な役割を果たしました。

昭和62(1987)年末の発見からこれまでの発掘調査で出土した中国の唐代~北宋(ほくそう)代や、朝鮮半島の新羅王朝のころ作られた陶磁器(とうじき)、西アジアのガラス容器やイスラム陶器などの大量の遺物は、古代日本最大の東アジア交流の拠点であったことを物語っています。

 鴻臚館跡は、わが国の古代外交のシンボルとして特に重要な史跡であることから、中心施設と考えられる建物跡などが残る東西約150m、南北約320m(面積48,027㎡)の範囲が、平成16年9月30日に国史跡として指定されました。

 鴻臚館年表

下の鴻臚館年表には、古墳・飛鳥時代・奈良時代・平安時代における、「記録に残る筑紫館・鴻臚館」、「日本のおもな出来事」、『東アジアのおもな出来事」が記載されてます。

「記録に残る筑紫館・鴻臚館」の例をいくつか挙げます。

「筑紫の鴻臚館は、飛鳥・奈良時代には筑紫館(つくしのむろつみ・つくしのたち)と呼ばれ、飛鳥時代持統2年(688)新羅国使金霜林を筑紫館でもてなしたという『日本書紀』の記事に初めて登場します。

また奈良時代天平8年(736)遣新羅使が、筑紫館でよんだ歌が『万葉集』に収められています。平安時代承和4年(847)には鴻臚館の名称で登場し(『入唐求法巡礼行記』)、平安時代永承二年(1047)大宰府が「大宋国商客宿房」に放火した犯人4人を捕縛した記事が最後の記録となってます。

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 大宰府と鴻臚館

下の説明板では、「大宰府(だざいふ)と鴻臚館」について、「大宰府の九州での役割大宰府の出先施設としての鴻臚館」、「鴻臚館と関連する大宰府の機構」、「奈良時代律令制度下の中央政府組織と大宰府」に関する事が記載されてます。

大宰府と鴻臚館との関係

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「遠(とお)の朝廷(みかど)」大宰府は、九州(西海道:さいかいどう)およびその諸島の政治的な統括と東アジア諸国との対外交渉の窓口として、また九州の防備(ぼうび)の要(かなめ)として置かれました。

その組織は大宰師(だざいのそち)を長官として、「政所(まんどころ)」、「公文所(くもんじょ)」、「蔵司(くらのつかさ)」などの部署が置かれ5人ほどの役人が従事していました。

鴻臚館は、大宰府の出先施設で、職掌(しょくしょう)上は「蕃客所(ばんきゃくしょ)」に属していました。

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古代官道推定図

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 鴻臚館と大宰府との古代官道推定図の拡大図

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木簡

墨で文字が書かれた木片のことを木簡(もっかん)といいます下の説明板には、木簡について詳しく説明してます。

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木簡とは板に墨書(ぼくしょ)したものいう。鴻臚館では貢進物付札(こうしんもつつけふだ:税の品物に付けた荷札)が奈良時代のトイレ遺構から出土している。板には、「肥後国(ひごのくに)」・「京都郡(みやこぐん)」「庇羅郷(ひらごう)」などの地名の他に、当時の税の一つであった「庸(よう)」、「米」・「鹿の乾肉(ほしにく)」などの物品名が記されている。これらの木簡は、大宰府に運ばれた九州各地の税が、遺唐使や遺新羅使、商客のために使われたことを示している。

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木簡(奈良時代・8世紀)の実物です。

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右より「不明」、真中は「□□玄米二升  五十人  日二合」、左は「不明」と記されてます。

「伊貴(いき)作瓦」銘瓦

「伊貴(いき)作瓦」とは、古代の文字瓦です。鴻臚館の屋根には、伊貴作瓦が葺(ふ)かれてました。

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「福岡市西区壱岐(いき(斜ヶ浦:ななめがうら)瓦窯)で作られた。」と説明されてます。

 

筑紫館と鴻臚館

下の説明板には、鴻臚館の前身の筑紫館と呼ばれた時期筑紫館が記された史料の名時代筑紫館の造営の経緯等についての説明と筑紫館に関する万葉集4首が記載されてます。

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筑紫の鴻臚館は、飛鳥(あすか)時代から平安時代初めまでは、筑紫館とよばれました。

筑紫館が史料(しりょう)に初めて現れるのは、688年です。わが国最初の正史「日本書記」持統(じとう)天皇二年正月の条には、新羅(しらぎ)国からの使者である金霜林(きんそうりん)を筑紫館でもてなしたという記事が残されています。

また、奈良時代に編纂(へんさん)された「万葉集巻第十五」には、わが国から新羅に遣(つか)わされた遣新羅使(けんしらぎし)の一行が、736(天平(てんぴょう)8)年に詠(うた)った「筑紫館に至り、遙(はる)かに本郷(もとつくに)を望み、悽愴(いた)みて作る歌四首」等が古くから知られていました。

筑紫館の造営(ぞうえい)は、唐と新羅の連合国と百済を救援した倭国(わこく:日本)とが戦った白村江(はくそんこう)の戦い(633年)の後からまもない時期に、緊迫する朝鮮半島の情勢をみながら、大宰府の整備とともに進められたと考えられています。

 

歌四首

志賀の海人(あま)の一日もおちず焼く鹽(しお)の辛(つら)き戀(こい)をも吾(われ)はするかも  3652

志賀の浦に漁(いざり)する海人(あま)家人(いえびと)の待(ま)ち戀(こ)ふらむに明(あか)し釣(つ)る魚(うを)  3653

かしふ江に鶴鳴(たづな)き渡る志賀の浦に沖(おき)つ白波立ちし来(く)らしも  3654

今よりは秋づきぬらしあしびきの山松(やままつ)にかげにひぐらし鳴(な)きぬ  3655

万葉集の簡単な意味です。

志賀の海人の 一日もおちず 焼く鹽の 辛き戀をも 吾はするかも

【意味】志賀島の海人たちが一日も欠かさず焼く塩は辛い。そんなからい恋に私は落ちてしまった。

志賀の浦に 漁する海人 家人の 待ち戀ふらむに 明し釣る魚

【意味】志賀の浦で漁をしている海人は、家族が待っているであろうに、夜通し漁を行っている。

かしふ江に 鶴鳴き渡る 志賀の浦に 沖つ白波 立ちし来らしも

【意味】香椎の入り江に鶴が鳴いて飛んでいく。志賀の浦では沖に白波が立って、幾重にも押し寄せているようだ。

今よりは 秋づきぬらし あしびきの 山松にかげに ひぐらし鳴きぬ

【意味】今はもう秋になってしまったらしい。山の松陰でヒグラシが鳴き始めた。

筑紫館から鴻臚館への建物の変遷 

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下の写真では、青い線が建物等の跡です。

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第Ⅰ期 筑紫館の遺構7世紀後半

谷を挟んで南と北に並んだ丘を削って敷地を造成し、堀立柱建物(ほったてばしらたてもの)を営んだ。北館と南館建物の主軸線は同じではない。また、北館の造成地の谷側には、小規模だが、石垣が造られていた。

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 第Ⅱ期 筑紫館の遺構8世紀前半

埋め立てはさらに広がり、北側には高さ4mを超える石垣が築かれた。南館と北館の造成地には、まったく同じ規模の施設が営まれた。発掘調査では、東西72m、南北56mの長方形に巡る塀と東門が検出されている。また、南館北館それぞれの掘の外側からは、トイレの遺構が見つかった。

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第Ⅲ期 鴻臚館の時代8世紀前半~9世紀前半

巨大な礎石(そせき)を敷いた、礎石建物の時代である。後世の削平が激しく、一部しか残っていないが、南・北館とも庇(ひさし)がつく大型建物・回廊状建物(かいろうじょうたてもの)、南館には南門とおもわれる基壇跡(きだんあと)などが見つかっている。
第Ⅳ期以降の建物跡は、すでに破壊を受け、確認されていない。

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 鴻臚館の復元イメージ

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 飛鳥時代から平安時代にかけて存続した鴻臚館の時期別イメージを、これまでの発掘調査成果を基に、推定復元しました。今後の調査によって細部の構造や建物の構成が変わる場合もあります。

 第Ⅰ期の奈良時代の鴻臚館を想定した復元イメージ図です。

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第Ⅱ期の奈良時代の鴻臚館を想定した復元イメージ図です。

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第Ⅲ期の奈良~平安時代時代の鴻臚館を想定した復元イメージ図です。

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出土陶磁器等

下の写真は、交易を物語るコーナーです。

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交易を物語るもの 

下の説明板では、鴻臚館に中国等からもたらされた多種多様の文物、中国等の陶磁器をはじめとするに遺物ついて説明してます。

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鴻臚館には、新羅、唐や宋の商人などによって、薬品、香料、毛皮、綿、綾、装飾品、仏典、絵画、典籍、器物などの多種多様な文物がもたらされた。

これらは非常に貴重な唐物として、当時の人々の憧(あこが)れのまとであった。鴻臚館跡からは、これらのうち、中国各地でつくられた大量の陶磁器が遺物として出土している。

現在の河北省、浙江省、湖南省、福建省、江西省など広い地域から集められ、中には窯から取り出したまま荷造りしたことを物語るものもある。

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中国製陶磁器のふるさと」の拡大図です。

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陶磁器の道

陶磁器とは、セラミックの一種で、土を練り固め焼いて作ったものです下の説明板には、中国の陶磁器が運ばれた海と陸のルート、鴻臚館跡出土の遺物について説明してます。

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中国の陶磁器が運ばれたルートは海と陸がある。陸路はいわゆるシルクロード である。内蒙古、 中央アジア、 西アジアへとラクダを使って運ばれた。

一方、 海路も早くからひらかれ、沿岸に沿って東南アジア、インド、パキスタン、シリア、 トルコへと続く、いわゆる“セラミックロード(陶磁の道)”で海のシルクロードと呼ばれている。

これらの海のシルクロードの港湾遺跡からは古代、中世の中国 陶磁が出土している。

鴻臨館での貿易を担ったのは、当初新羅の商人で、後には中国の明州(寧波:ニンポー) の商人たちであった。
鴻盛館跡出土の越州窯青磁花文椀は、 遠くエジプトのフスタート遺跡からも 出土しており、鴻臨館と世界は“セラミックロード”で結ばれていたのである。

陶磁の道」の地図です。

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白磁

白磁(はくじ)とは、白素地に無色の釉薬(ゆうやく:表面をガラス質にするためにかける薬)をかけた磁器です

白磁椀(はくじわん:中国・唐・9世紀)

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白磁皿(はくじさら:中国・唐・9世紀)

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白磁稜花皿(はくじりょうかさら:中国・五代・10世紀)

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青磁

青磁(せいじ)とは、青緑色の釉 (うわぐすり) のかかった磁器です。

下の写真では、左より 青磁合子蓋(せいじごうすふた:中国・唐~五代・9~10世紀)、青磁灯明皿(せいじとうみょうさら:中国・唐~五代・9~10世紀)

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青磁椀(せいじわん:中国・北宋・10世紀)

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青磁小壺(せいじこつぼ:中国・五代~北宋・10~11世紀)

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青磁双耳壺(せいじそうじこ:中国・五代・10世紀)。

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青磁水注(せいじすいちゅう:中国・北宋・10~11世紀)

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下の写真は、青磁花文椀(せいじかもんわん:中国・五代~北宋・10~11世紀)の破片です。

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青磁花文椀(中国・五代・10世紀)のレプリカです。

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陶磁器等

三彩印花鴛鴦文陶枕(さんさいいんかえんおうもんとうちん:中国・唐・9世紀)の破片です。

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三彩印花鴛鴦文陶枕(中国・唐・8~9世紀)のレプリカです。

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黄釉 褐彩貼花水注(おうゆうかっさいてんかすいちゅう:中国・唐・9世紀)の出土した破片です。

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黄釉 褐彩貼花水注(中国・唐・9世紀)のレプリカです。

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陶器捏鉢(とうきこねばち:中国・北宋・11世紀)

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 イスラム陶器(9世紀)の破片です。

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アクセス 

 

〒810-0043 福岡県福岡市中央区城内1-4

●地下鉄をご利用の場合

「赤坂」下車 徒歩約7分

●バスをご利用の場合

「福岡城・鴻臚館前」「福岡市美術館東口」「大手門・平和台陸上競技場入口」下車
徒歩約5分〜8分

「赤坂3丁目」下車 徒歩約10分

●車をご利用の場合

都市高速「天神北ランプ」「西公園ランプ」より約3キロ圏内に
駐車場あり

利用案内

鴻臚館跡展示館は、改修工事等のため,下記のとおり一時休館してます。
【休館期間】令和3年2月14日(日曜日)から令和3年3月5日(金曜日)まで
【問合せ先】文化財活用課 092 ‐ 711 – 4666

開館時間:9:00~17:00(入館は16:30)

休館日   :12月29日~1月3日(通常)

利用料金:無料

TEL   :092-721-0282

最後に

次回も鴻臚館跡展示館 になる予定です。このブログの鴻臚館跡展示館の記事は、令和3年2月~3月の改修工事前の状況で記載してます。よろしかったら次回も覗いてみて下さい。