人にも作品にも優しい福岡市美術館!
福岡の美術館ー福岡市美術館

はじめに
先日、大濠公園近くでの用事が早く終わりましたので、近くの福岡市美術館に行ってきました。
今回の記事は福岡市美術館全般について記載します。個別の展示会については、次回以降に記事にする予定です。
[目次]
福岡市美術館の概略
大濠公園の一角にある福岡市美術館は、わが国でも有数の環境と規模・内容を誇る近代的な美術館で、1979(昭和54)年に開館しました。
2019(平成31)年3月には、大濠公園側に新しいアプローチを設けるなどの大規模な改修が終了し、リニューアルオープンしました。
古美術においては、弘法大師筆「金剛般若経開題残巻」、尾形乾山筆「色絵吉野山図茶壺」、福岡藩主黒田家の菩提寺の一つ東光院の仏像や仏画などを所蔵しています。
また、近現代美術においては、ミロ、ダリ、シャガール、ウォーホール、青木繁、フジタなど内外のすぐれた作品を所蔵しています。
下のリンクは、福岡市美術館のホームページです。この記事を作成するにあったて、参考にしました。
三つの出入り口
福岡市美術館には、三つの出入り口があります。南口と北口は最初からありました。大濠公園側の出入り口は、2019(平成31)年のリニューアルの時に出来ました。
南口
南口は国体道路側にあります。近くには警固神社、NHK福岡局、大濠公園日本庭園があります。

南口の建物前にある像は、第十七代福岡市長で福岡市名誉市民の「進藤一馬氏像」です。
下の作品は、イギリス人彫刻家バリー・クラナガンの「三日月と鐘の上を跳ぶ野うさぎ」です。
北口
北口は2階にあります。北口を出るとエスプラナード(散策道、広場)があります。そこには、いくつかの作品が展示されてます。


下の作品は、木内克の「エーゲ海に棒ぐ」です。奥に見えるのは、大濠公園の池です。
下の作品は、エミリオ・グレコの「スケートをする女NO.2」です。
下の作品は、堀内正和の「三本の直方体A」です。

下の作品は、草間彌生の「南瓜」です。
南瓜:1994年 FRP ウレタン塗料
草間彌生:1929 / 長野~
南瓜は草間彌生が初めて手がけた野外彫刻作品です。彼女は幼少期からカボチャの「愛嬌のある形」と「太っ腹の飾らぬ容貌」に惹かれ、「たくまし精神的な力強さ」を感じたといいます。
本作に見られる、ふくよかで生命力あふれる姿や、黄色の地に映える黒い水玉のコントラストは、確かにエネルギーを放ってます。
下の作品は、 アンソニー・カロの「驚きの平面」です。
下の写真は、北口への階段付近です。

大濠公園口
大濠公園口は、一階にあります。
大濠公園口の脇には、外にカフェテラスが設けられてます。
掲示板の後ろにあるジャコモ・マンズーの「恋人たち」です。

階段を降りて行くと目の前は大濠公園の池です。
1F
一階には、コレクション展示室・古美術、ミュージックホール、アートスタジオ、レクチュアルーム、ミュージアムショップ、カフェ等があります。

ミュージアムショップ
南口から入ると、すぐ脇にはミュージアムショップがあります。福岡市美術館の所蔵品をモティーフにしたオリジナルグッズやレプリカをはじめ、展覧会図録、地元クリエイターによるグッズ、高取焼や博多織、博多人形などの伝統工芸、美術に関する書籍などを販売してます。
博多人形師の小副川太郎による、福岡市美術館所蔵品モチーフの「福かぶり猫」です。

中庭
中庭には四重塔(室町時代:14~16世紀:松永コレクション)、都府楼礎石(奈良ー平安時代:花崗岩:松永コレクション)、李 兎煥(リ・ウーファン)関係項(2004年(原作は1968年):石、ガラス、鉄)があります。
訪れた日の一階の各展示室の内容は、企画展示室では「黒田家の名宝」、「新収蔵品展(古美術)」、松永記念展示室では「春の名品展」、東光院仏教美術室では「東光院のみほとけ」でした。
各展示については、次回以降に記事にする予定です。
東光院仏教美術室
下の説明板は、東光院の概略、仏像群等の説明と東光院の写真で構成されてます。
東光院仏教美術室
この展示室では、博多区吉塚にある薬王密寺東光院に伝来した重要文化財を含む仏像群を展示しています。
東光院は、平安時代に活躍した伝教大師最澄によって開かれたと伝わり、本尊の薬師如来は寺院の建つ地名にちなんで「堅粕薬師(かたかすやくし)」と呼ばれてます。
特に眼病にご利益があるとされ、織田信長の家臣も参拝に訪れるなど、広くその名を知られていました。
江戸時代には、福岡藩黒田家の歴代藩主からも信仰をうけ菩提樹のような存在にもなっています。
明治時代以降も、住吉神社の神宮寺であった円福寺に祀られていた仏像群をうけいれるなど、活発な寺院活動を行なっていましたが、昭和49年(1974)、当時住職を務めていた清藤泰順尼(きよとうたいじゅんに)が、永らく後世へ伝えていくことを願って、仏像群を福岡市に寄贈されました。
その後昭和54年に開館した当館で保管と公開がなされ、東光院の歴史を今に伝えてます。
東光院仏教 美術室では、「東光院のみほとけ」が催されてます(2021年4月1日~2022年3月31日)。「東光院のみほとけ」については、次回以降に記事にする予定です。

松永記念館展示室
下の説明板は、松永安左エ門氏の略歴、茶との関係等の説明文と晩年の写真で構成されてます。
松永記念館室
戦前戦後に活躍した実業家で「耳庵(しあん)」と号する茶人であった松永安左エ門(まつながやすさえもん)氏(1875-1971)の蒐集品を公開する展示室です。
長崎県の壱岐に生まれ育ち、慶應義塾で学んだ氏は、福岡での鉄道事業を機に電力業界で躍進。全国の電力会社を次々と吸収合併し、世に「電力王」と謳われました。
電力業界の第一線を退いて茶の湯に没頭するようになったのは、還暦を迎える頃でした。埼玉に構えた柳瀬山荘(やなせさんそう)に隠棲するや精力的に茶道具の蒐集し、茶の湯三昧の日々を送ります。
戦後は電気事業再編成の主導役に抜擢され「電力王」と畏れられる程の豪腕を振るい、今日の電力体制基盤を確立しました。
その激務の最中も、小田原に構えた老欅荘(ろうきょそう)にて自由無碍の茶を愉しみました。
戦前に集めた茶道具の多くは戦後まもなく東京博物館に寄贈しましたが、名品蒐集の情熱は冷めることなく、昭和34年(1959)、老欅荘の東隣に開館した美術館「松永記念館」に結実しました。
氏の没後、財団法人松永記念館の解散に伴い、371点のコレクションが当館に寄贈されました。重要文化財20点、重要美術品11点を含むその内容は、茶道具のみならず日本・東洋の幅広いジャンルの名品で彩られ、国内屈指の質の高さを誇ります。
本室では1~2ヶ月毎にテーマを変えて展示替えをしながら、常時約20点を紹介してます。
松永記念館室では、「春の名品展」が催されてます(2021年4月13日~2021年6月13日)。「春の名品展」については次回以降に記事にする予定です。

企画展示室
企画展示室では、「黒田家の名宝」と「新収蔵品展(古美術)」が催されてます(2021年4月13日~2021年5月30日)。「黒田家の名宝」は次回以降に記事にする予定です。
黒田家の名宝

新収蔵品展(古美術)
2020年に新しく収蔵した作品

ミュージアムホール
文化芸術に関連した講演会や講座のほか、上映会や演劇、コンサートとしても利用されてます。

アートスタジオ
ワークショップや講演会などの利用のほか、ダンスやパフォーマンスなどの場としても利用されてます。

レクチャールーム
小規模な講演会や講座、ワークショップなどに利用されてます。

カフェ アクアム
大濠公園口側のアプローチ広場横にあるガラス張りのカフェでは、きらめく水面を眺めながら軽食やドリンクをお楽しみいただけます。
朝食にぴったりのパンやコーヒー、サンドイッチ等のランチメニュー、ケーキやソフトクリーム、アルコールやオードブルを取りそろえ、時間帯や目的によってお好みのメニューをお選びいただけます。
晴れた日にはテイクアウトを利用して、屋外でゆったり過ごしていただくのもおすすめです。
2F
二階には、近現代美術のコレクション展示室、キッズスペース、特別展示室、前川國男メモリアルスペース、美術情報コーナー、レストラン、ギャラリーA-F等があります。

一階より階段を使って二階に来ると、すぐ脇にイタリアの彫刻家マリノ・マリーニ(1901-1980)の作品「騎手」があります。


マリノ・マリーニ
イタリアに生まれる。フィレンツェ美術学校に学ぶ。1932年ヴェネツィア・ビエンナーレに初出品、1952年には同展で彫刻大賞を受賞。
1940年からプレア美術学校で後進を指導。30年代以降の素朴で強い生命力を示す騎馬像で世界的な評価を得た。イタリア近代彫刻を代表する巨匠。イタリアで死去。
前川國男メモリアルスペース
マリノ・マリーニの作品の向かいには、福岡市美術館の設計者の「前川國男メモリアルスペース」があります。
そこの説明板では、前川氏の略歴、設計への意図や想い、そして、福岡市美術館の建物の特徴等について知ることができます。近くに椅子がありますので、休憩もできます。

福岡市美術館の建物を設計したのは、建築家の前川國男(1905~1986)です。東京帝国大学建築科卒業と同時に渡仏。世界的建築家のル・コルビュジェに西欧近代建築を学びました。
帰国後は、確かな技術に基づいた「近代建築」を日本の風土に根付かせようと努力を重ね、やがて日本を代表する建築家と目されるまでになりました。
岡山県庁舎(1957年)や東京文化会館(1961年)など多くの公共建築のはか、1960年代後半から晩年にかけて国内各地で公立美術館・博物館の設計を手がけており、当館もその一つに数えられます。
1979年竣工の当館建築の外見上の特徴は、赤茶色の磁器質タイルによる外壁と、広々としたエスプラナードとロビーといったゆとりのある空間です。
アーチ状の天井やはつり壁面、照明器具にも工夫が凝らされています。来館者がくつろぐロビーの椅子や、館長室や応接室、会議室の家具も建築に合わせて製作されており、前川自身がその設計に関与しています。
当館の特徴を構成する重要な要素として見逃せません。そうした家具の多くは、当館リニューアルに合わせて修理し、再利用しています。
本スペースでは、修理前の家具類と改修前の当館建築の模型を紹介することで、前川國男のアイデアの原点をご紹介します。
美術情報コーナー
「美術情報コーナー」は、中央部にあります。このコーナーでは、福岡市美術館が所蔵する美術図書の一部(美術全集など)や展示に関する図書、雑誌や他館の展覧会チラシなどを自由に閲覧できます。
そして、館内にある約1万6000点の所蔵作品を検索できるパソコンを完備してますので、美術に関するさまざまな情報を得られます。
また、近くには椅子がありますので、展示鑑賞の合間に、ここで本を読みながらひと息つけます。


訪れた日の二階の各展示室の内容は、近現代美術室Aでは、「コレクションハイライト」と「富田溪仙展」、近現代美術室Bでは、「新収蔵品展」と「織田廣喜と平野遼」、近現代美術Cでは、「コレクションハイライト」が開催されてました。
「富田溪仙展」については、次回以降に記事にする予定です。

キッズコーナー 森のたね
小さな子どもとその保護者がくつろぐための場所として、「キッズスペース 森のたね」があります。製作したのは、アーティスト・オーギカナエさんです。
このスペースでは、畳の上でゆっくりと絵本が読め、壁のオブジェをとりはずして遊ぶこともできます。
「森のたね」という名前には、「小さな子どもたちが心に持つ美術のたねを育む場所にしたい」という福岡市美術館のスタッフとアーティストの願いが込められてます。
男性の保護者も入れる授乳室「赤ちゃんの休憩室」と女性専用の授乳室を併設してます。
「コレクション展示室 近現代代美術」の脇には、「中ハシ 克シゲ」の作品「Nipon Cha Cha Cha」があります。
題名は、五輪で日本選手を応援するときのかけ声。像のモデルは米国籍の人気力士小錦関。板塀や松に囲まれ、いかにも「日本的」だが、塀や松は金属製だ。イメージの中の「日本」とズレたリアルな「日本」がテーマだ。
コレクション展示室 近現代美術
近現代美術室A
「コレクションハイライト」が開催され、作品の中に「サルバドール・ダリ【ボルト・リガトの聖母】1950年」等がありました。撮影不可でしたので撮ったポスターを載せました。
ポルト・リガトの聖母
1950年 油彩・画布 275.3x209.8cm
サルバドール・ダリ
1904~1989 / スペイン
本作において、ダリは宗教と科学を絵画において融合しようとしてます。キリスト教絵画の伝統的主題である聖母子像の構図や図像を援用しつつも、あらゆるモチーフが浮遊し、祭壇は原子核構造と重なっています。
しかし、画面中央の聖母マリアはダリの愛妻ガラに置き換えられてます。題名にある「ポルト・リガト」は、ダリの故郷フィゲラス近くの、ダリとガラが戦後に移り住んだ港町です。
「冨田 溪仙展」は撮影可でしたので次回以降に記事にする予定です。

近現代美術室B
「新収蔵品展」と「織田廣喜と平野遼」が開催されてましたが、撮影不可でしたので、館内の案内板の写真を載せました。
織田廣喜(福岡県出身、1914~2012))の作品は、幻想的な女性像が特徴で、二科展を拠点に活躍しました。一方、北九州市で活躍した平野遼(大分県、1927~1992))の作品は、自己の内容を反映させた人物や風景描写が特徴です。
近現代美術室C
「コレクションハイライト」が開催され、作品の中に「インカ・ジョニバレCBEの【桜を放つ女性】」等がありました。撮影不可でしたので撮ったポスターを載せました。
下のブログ「福岡市美術館ブログ」では、インカ・ジョニバレCBEの【桜を放つ女性】について、写真を用いて詳しく説明してます。是非クリックして覗いてみて下さい。
下の写真は、コレクション展示室の最後の壁に設置されてる作品「KYNEの【Untitled】」です。ガラス越に外のエスプラナードからもご覧いただけます。
KYNE(1988~)
Untitled
2020
白い壁いっぱいに描かれるのは、横たわり、窓の向こうを眺めている女性。KYNEは本壁画製作にあたり、「公共性と自由」というテーマを設定した。美術館も大濠公園も公的な場所。公共とは、自由とは何か。この人物はそんなことを考えるているのかもしれない。
※本作は2022年12月末までの期間限定公開です。
KYNE(キネ)
福岡に生まれ、福岡を拠点とするアーティスト。大学時代に日本画を学び、並行して2006年頃から活動を開始。2010年頃、クールな女性を描く現在のスタイルを確立。1980年代の大衆文化を独自に解釈し生まれた絵画は、国内外で注目を集めている。
ギャラリー A-F
創作活動の発表の場にご利用いただけます。

レストラン プルヌス
美術館で最も眺めの良い位置にあるレストラン「プルヌス」では、大濠公園やエスプラナードを一望できます。
地元食材を使った料理を中心に、和食・洋食のランチ、夕日や夜景とともに味わうワイン、週末限定のブランチ等多彩なメニューをお楽しみいただけます。
下の動画は建物全体撮影してます。
アクセス
〒810-0051 福岡県福岡市中央区大濠公園1−6
地下鉄
○空港線 福岡空港駅から15分、博多駅から10分、天神駅から5分で
● 大濠公園駅下車、3・6番出口より徒歩10分
○七隈線 天神南駅から8分で
● 六本松駅下車、2番出口より徒歩10分
バス
○JR博多駅交通センターから西鉄バス13・140番系統で
●城内美術館東口下車徒歩3分
- 駐車場:有 駐車台数:20台
利用案内
開館時間 9:30~17:30
※7~10月の金・土曜日は20:00まで
入館はいずれも閉館の30分前まで
休館日 月曜
祝日・振替休日の場合はその後の最初の平日
12/28~1/4
観覧料金
【コレクション展・企画展】
一般 200円 高大生 150円 中学生以下 無料
【特別展】
展覧会によって料金が異なります。
TEL 092-714-6051(代表)
最後に
今回の 記事作成中に、福岡県に緊急事態宣言が発令されました。福岡市美術館では特別展「高畑勲展」は開催しますが、コレクション展示室、ギャラリー、キッズスペース、美術情報コーナー、カフェ・レストラン、ミュージアムショップは、令和3年5月12日(水)~31(月)まで閉鎖します。
そこで、福岡市美術館のスタッフやボランティアの方が、福岡市美術館のことをもっと知ってほしくて、福岡市美術館のおすすめスポットや作品を1分動画として、5月18日~5月30日に順次公開していくようです。
下のリンクをクリックすると「福岡市美術館おすすめ紹介動画」を視ることができます。
総館長なかやまさんのおすすめ:中庭
鴻臚館跡展示館 近年の発掘調査とその成果、東門と塀、復元建物、遺構展示、鴻臚館遺跡模型等を解説!
福岡の博物館ー鴻臚館跡展示館3

はじめに
今回は鴻臚館跡展示館の3回目の記事です。1・2回の記事はこちらです。
www.kazamoriblog.com
www.kazamoriblog.com
下の写真は、鴻臚館跡展示館案内板です。

[目次]
鴻臚館跡 近年の発掘調査とその成果
下の説明板では、各年度の発掘調査の成果を具体的に説明してます。
鴻臚館跡-南館と北館の発見
1994年度から2003年度にかけての調査により、展示館北側にある旧平和台球場跡の様子が明らかになってきました。
この結果、東西に伸びる谷の存在、南北に同規模の施設が営まれていたことなどが判明しました。近年は「鴻臚北館」と考えられる遺構を中心に、調査が進展しています。

① 第Ⅰ期掘立柱建物(2004年度調査)
建物1棟(東西2間南北4間)と、それを囲む塀の柱穴を発見しました。
② 北館トイレ(2000年度調査)
南館と同時期(8世紀前半)の、北館に伴うトイレ遺構です。深さは約360cmに及びます。
③ 陸橋埋立(1999年度調査)
東西の谷の奥を埋め立ててせき止め、南館と北館をつないだ跡を確認しました。
通路として機能したと思われます。
④ 石垣/第Ⅱ期石垣(2002年度調査)
8世紀前半のもので、東西長さ23m分を確認しました。高さ4.2mの石垣です。さらに、東西に長く続くと思われます。

⑤ 礎石建物(2000年度調査)
3mおきに立てられた柱の11間分を確認しました。東西に長くのびる建物の礎石をすえた跡です。8世紀後半の築造と思われます。
⑥ 石垣/第Ⅰ期石垣(2001年度調査)
7世紀後半の頃の築造と思われます。東辺、南辺を発見しました。
⑦ 北館東門と布掘建物(1999年度調査)
8世紀後半の門と塀です。南館と同様に、東門の跡と見られる柱穴を発見しました。

土層剥ぎ取リ(どそうはぎとり)
下の写真では、古代の遺構を記録する方法の「土層剥ぎ取り」について説明してます。

古代の人々の残した生活の跡(遺構)をそのまま記録する方法に「土層剥ぎ取り」という手法がある。この方法は、剥ぎ取りたい面に合成樹脂を塗り、その上から布を貼り付け補強し、固まった後、土層そのものを薄く剥ぎ取る。
この方法によると、調査終了後に土質などを実感しながら再検討できる利点がある。
鴻臚舘跡の調査でもこうした長所を生かして、筑紫館の東門と塀の基礎部分の土層を剥ぎ取っている。
東門と塀
東門復元図(とうもんふくげんず)奈良時代
下の東門復元図には、「土層剥ぎ取り部分」があります。
下の写真は、筑紫館東門の基礎堀の「土層剥ぎ取り部分」です。「土層剥ぎ取り部分」には、左より「筑紫館東門の基礎堀」、「柱の跡」、「地山」、「柱の跡」の札が付いてます。他の札には、「展示品にはさわらないでください」と記されてます。
下の写真は、「柱の跡」の拡大写真です。札には、「直径が約40cmの円柱」と記されてます・
下の写真は、「 地山(じやま)」の拡大写真です。札には、「頁岩(けいがん:薄く割れやすい性質をもつ泥岩)が風化し、やや軟弱になっています。」と記されてます。
塀復元図(へいふくげんず)
下の塀復元図には、「土層剥ぎ取り部分」があります。
下の写真は、筑紫館塀の基礎堀の「土層剥ぎ取り部分」です。「筑紫館塀の基礎堀」、「地山」、「柱の跡」、「版築の跡」、「布堀り」、「展示品にはさわらないでください」の札が付いてます。
下の写真は、「 地山(じやま)」の拡大写真です。札には、「頁岩(けいがん:薄く割れやすい性質をもつ泥岩)が風化し、やや軟弱になっています。」と記されてます。
下の写真は、「柱の跡」の拡大写真です。札には、「直径が約40cmの円柱」と記されてます。
下の写真は、「版築(はんちく:土を建材に用い強く突き固める方法)の跡」の拡大写真で、札には、「柱の根固めのために埋めた土をつき固めた跡が何枚もの層になってます。」と記されてます。
下の写真は、「布堀り(ぬのぼり:壁や土台の下となる部分を溝状に細長く掘ること)」の拡大写真で、札には「一定の間隔(2.4m)で柱を立てるために溝状に掘っています。」と記されてます。
復元建物
鴻臚館跡展示館の出入り口から中に入ると正面に復元建物が見えます。この復元建物は、宿坊(しゅくぼう:宿泊施設)または回廊(かいろう:廊下)と推定される建物です。
斜めから見る
反対側から見る
礎石建物(そせきたてもの)
復元建物は、「礎石建物」です。下の説明版は、礎石建物の説明と復元建物の大きさを説明してます。
礎石建物は、大きな石を地面に据(す)え、その上に柱を建てたものである。屋根は瓦で葺(ふ)いていた。この建物は、東西に廂(ひさし)を持つ大型の建物で、長さ(桁行:けたゆき)18m以上、巾(梁行:はりゆき)12mを測る。
復元建物の位置
下の説明板は、鴻臚館の用途等を説明してます。
鴻臚館には、外国からの使節を応接したり、宿泊する建物などのほかに 施設を管理する役人や、 警備する人たちの建物、 食料や器物の倉庫などの施設があったと考えられます。
復元建物は、宿房(しゅくぼう)または回廊(かいろう)と推定される建物の一部です。
建物の部分名称
下の写真の英字(A~X))の表記は、建物の部分名称を説明してます。

A 棟瓦(むねがわら)とは、瓦屋根の頂上部分にある瓦を指します。
B 丸瓦(まるがわら)とは、半円筒形の瓦で 本瓦葺(ほんかわらぶ)きで平瓦と組み合わせて用います。
C 平瓦(ひらがわら)とは、反りのついた板状の瓦で、丸瓦と組み合わせて用います。
D 葺き土(ふきど)とは、瓦をのせる粘土の層です。上の写真では、「葺き土」は瓦に隠れているので見えません。
E 垂木(たるき)とは、屋根の野地板を支えて屋根を構成する重要な建材のひとつです。
F 棟木(むなぎ)とは、屋根をつくるために、 屋根の一番高い位置に取り付けられる建材です.
G 叉首(さす)とは、棟木を受けるために合掌形に組む建材です。上の写真では、建物の中にあるので見えません。
H 虹梁(こうりょう)とは、梁(はり)の一種で、やや反りを持たせて造った化粧梁をいいます
I 丸桁(まるげた)とは、垂木を支える桁で、最も軒先近くにあるもの。 奈良時代には断面が円形の材が用いられた。
J 舟肘木(ふなひじき)とは、船形の肘木で、柱の上に直接のせて軒桁を支える組物です。
K 斗(ます)とは、柱の上部で軒桁を支える部位の名称です。




L 頭貫(かしらぬき)とは、柱の一番上に用いられる貫(柱等の垂直材間に通す水平材)のこと。
M 内法長押(うちのりなげし)とは、開口部のすぐ上にある長押(柱を水平につなぐもの)のこと。


N 扉(とびら)とは、建物や部屋などの入口などにつけられ、開口部を閉じたり、外部と遮断する機能をもつ部分です。
O 連子窓(れんじまど)とは、角材を縦または横方向にすき間をあけて並べた窓のことです。その角材が、P 連子子(れんじこ)です。下の写真では、扉の両脇に連子窓があります。


Q 土壁(つちかべ)とは、日本の伝統工法による土を用いて作られた壁です。
R 木舞(こまい)とは、細い竹を縦、横に細かく架け渡し縄で編んだものです。
S 地覆(じふく)とは、建物などの最下部に、地面に接して取り付ける横木です。
T 地長押(じなげし)とは、柱の最下部をつないだ長押(和室の壁を囲む構造材で、役割は、柱と柱を水平に繋ぎ固定させること)です。
U 地覆石(じふくいし)とは、地面に接する部分に土台のように横に配される石です。
V 土間(どま)とは、家の中で床を張らず土足で歩く場所です。
W 基壇(きだん)とは、建物への水の浸入を防ぐため、水はけを良くするために平地の上に石を組み、 高くした部分です。

X 礎石(そせき)とは、建造物の基礎にあって柱などを支える石です。



遺構展示
遺構展示では、礎石、礎石据付穴、基壇、掘り込み地業、江戸時代の井戸跡、瓦溜、土坑などの遺構の発掘された様子を見ることができます。
下の写真は、出入口付近から見た遺構展示です。
階段を降りて見る
反対側から見た遺構展示です。
斜めから見た遺構展示です。
奥から見た遺構展示です。
礎石(そせき:建造物の基礎にあって柱などを支える石)です。
礎石据付穴(そせきそえつきあな:礎石を据えるための穴)です。

基壇(きだん:建物への水の浸入を防ぐため、水はけを良くするために平地の上に石を組み、 高くした部分)です。
掘り込み地業(ほりこみじぎょう)
下の説明板では、掘り込み地業について、図を用いて説明してます。
掘込み地業とは、大型の建物を建てる際に、地面を深く掘り下げた後に土を少しずつ入れて突き固め(版築:はんちく)、地盤を強固なものにする工法である。

江戸時代の井戸跡
鴻臚館跡は、江戸時代は福岡城だったので、藩士の方が使用したであろう井戸跡です。

土坑(どこう:発掘調査などの際に確認される遺構のうち、人間が土を掘りくぼめてできたと考えられる穴)、瓦溜(かわらだまり:瓦がたまっていた所)
反対側から見る
捨てられた陶磁器
展示館の奥に「捨てられた陶磁器」の展示があります。
鴻臚館遺跡模型
下の写真は、鴻臚館遺跡模型です。数字(1~7)は遺構、英字(A~E)は展示館関連を表示してます。

1 礎石建物、2 雨落ち溝、3 便所遺構(奈良時代)、4 堀(江戸時代)、5 排水溝、6 布堀柵列、7 福岡城土塁(江戸時代)、A 復元建物、B 屋内遺構展示、C 展示館部分、D 屋外遺構表示、E 現在地
下の写真は、鴻臚館遺跡模型の説明板です。

1987(昭和62)年12月、平和台球場外野スタンドで鴻臚館の建物跡が発見された。以来発掘調査が進められ、鴻臚館の実態が徐々に明らかになりつつある。
福岡城や旧陸軍連隊の建物によって一部破壊されているが、瓦(かわら)葺(ふ)きの礎石(そせき)建物群や、それよりも古い掘立柱(ほったてばしら)遺構(柵列:さくれつ)などが見つかっている。
この模型は1988~90年の調査区域の遺構を調査成果に基づき作成したものである。
下の写真は、「1 礎石建物、A 復元建物、B 屋内遺構展示、C 展示館部分」を拡大してます。

下の写真は、「2 雨落ち溝、3 便所遺構(奈良時代)、4 堀(江戸時代)」を拡大してます。
下の写真は、「5 排水溝、6 布堀柵列(細長く堀った柵の列)」を拡大してます。
下の写真は、「7 福岡城土塁(江戸時代)」の拡大写真です。土塁(どるい)とは、敵や動物などの侵入を防ぐために築かれた、主に盛土による堤防状の防壁です。
下の動画は、鴻臚館跡展示館の奥から全体を撮影した動画です。
アクセス
〒810-0043 福岡県福岡市中央区城内1-4
●地下鉄をご利用の場合
「赤坂」下車 徒歩約7分
●バスをご利用の場合
「福岡城・鴻臚館前」「福岡市美術館東口」「大手門・平和台陸上競技場入口」下車
徒歩約5分〜8分
「赤坂3丁目」下車 徒歩約10分
●車をご利用の場合
都市高速「天神北ランプ」「西公園ランプ」より約3キロ圏内に
駐車場あり
利用案内
開館時間:9:00~17:00(入館は16:30)
休館日 :12月29日~1月3日(通常)
利用料金:無料
TEL :092-721-0282
最後に
今回で鴻臚館跡展示館についての記事は終わりです。鴻臚館跡展示館は、改修工事等のため,2021(令和3)年2月14日から2021(令和3)年3月5日まで休館してました。
改修工事等の後、どのように変わったかを確認するため再び訪れましたが、殆ど変わってませんでした。
最後までお読み頂きありがとうございます。
鴻臚館跡展示館の遣唐使、鴻臚館跡の解明、8世紀のトイレ跡等を解説!
福岡の博物館ー鴻臚館跡展示館2 遣唐使、鴻臚館跡の解明、8世紀のトイレ跡
はじめに
今回は鴻臚館跡展示館の2回目の記事です。前回の記事はこちらです。
下の写真は、鴻臚館跡展示館案内板です。

[目次]
遣唐使
遣唐使(けんとうし)とは、日本が唐(中国)に派遣した使節です。遣唐使船には、多くの留学生等が同行し往来して、政治家・官僚・僧・芸術工芸など多くのジャンルに人材を供給しました。その中には、空海、最澄、菅原道真等がいました。

下の説明板は、遣唐使の概要と遣唐使船の航路について説明してます。
遣唐使の概要
遣唐使は630(舒明2)年8月に犬上御田鍬(いぬがみみたすき)らを最初に、894(寛平6)年に菅原道真の建議(けんぎ)で廃止されるまで20回計画され、うち15回が派遣された。
造船・航海術が未熟な当時は、東シナ海を横断することはきわめて危険で、8回の遭難記録がある。遭難覚悟の厳しい航海であった事を示す。
初め2隻の航海であったものを4隻に増やし、出発日をそれぞれずらしたのも、遭難を避け、とにかく1隻でも中国に着きたいという配慮であった。
遣唐使船の航路
◆遣唐使船の三つの航路
1. 北路 博多→壱岐→朝鮮半島西岸北上→黄海→山東半島上陸
●7世紀の遣唐使が続行
2. 南路 博多→五島列島西端→揚子江河口の揚州
「遣唐使は値嘉島の合子田浦又は川原の浦より出発し、美弥良久(五島三井楽)から西を指して渡る 「肥前国風土記」より
●732(天平5)年の遣唐使は南路の可能性がある。
●777(宝亀8)年の遣唐使は確実に南路を航行している。
3. 南島路 九州西岸南下→南西諸島→揚子江河口の揚州
●8世紀代に航路開発。主に復路(帰路)に利用。
開発理由
① 新羅との関係が悪化、朝鮮半島経由が危険となった。
② 当時のわが国の領土開発に対する意欲が高まった。
・702(大宝2)年、中国に対して初めて「日本」と名のる。
・735(天平7)年、「南島に島名、停泊所、水の便、国までの距離などを記した碑」を設けるように大宰府に命ず。
遣唐使船の三つの航路の地図・遣唐使一覧表

北路 博多→壱岐→朝鮮半島西岸北上→黄海→山東半島上陸

南路 博多→五島列島西端→揚子江河口の揚州

南島路 九州西岸南下→南西諸島→揚子江河口の揚州

遣唐使一覧
遣唐使は630(舒明2)年を最初に、894(寛平6)年に菅原道真の建議(けんぎ)で廃止されるまで20回計画されました(諸説あり)。

遣唐使の構成
下の説明板では、遣唐使船の乗員の構成、人数、四等官、遣唐使船のイメージ画像等が載ってます。
遣唐使は、大使・副史をはじめに留学生、学問僧など約400~500人が4隻の船に分乗し、出発した。
四等官について
四等官(しとうかん)は、唐にならい律令制における各官司の中核職員が4等級で構成されていたことを表す用語で、律令制を支える精緻な官僚システムの基礎制度として機能しました。
四等官制は、長官(かみー例:大使)・次官(すけー例:副使)・判官(じょう)・主典(さかんー例:録事)の4等級から構成されており、令(法律)において、それぞれの分掌事務が定められていました。
遣唐使4隻のイメージ画像
遣唐使船航路図
中山平次郎博士の業績
中山平次郎博士とその業績
下の説明板では、中山平次郎博士の業績、略歴について説明してます。


中山平次郎博士は九州帝国大学医学部教授として優秀な医学者を育てるかたわら、考古学にも深い関心を寄せられ、大正から昭和初期に、九州における考古学の先駆者として活躍、わが国の考古学史上に大きな足跡を残された。
金印「漢委奴国王」の出土地比定、今山遺跡の石斧製作の分析、青銅器の研究などは、北部九州の弥生文化を明らかにする上で、たいへん重要な成果である。さらに考古学的研究を適して大宰府鴻臚館を解明し、中世博多を現代によみがえらせ、元冠防塁の調査と保存に力を尽くされた博士の業績は、本市の文化財保護、都市づくりの理念など多くの面に生かされている。●中山平次郎博士年譜
明治4年(1871) 京都市上京区に生まれる。
明治29年(1896) 東京帝国大学医学部に入学。
明治36年(1903) 医学研究のため、ドイツ・オーストリアへ留学。
明治39年(1906) 京都帝国大学福岡医科大学(現在の九州大学医学計)の教授となる。
昭和4年(1929)福岡県史蹟名勝天然記念物調査委員となる。
昭和25年(1950)西日本文化賞を受貧。
昭和31年(1956)逝去。(亨年85歳)
鴻臚館の解明
下の説明板では、中山平次郎博士による鴻臚館が福岡城内にあった根拠を説明してます。
中山平次郎博士は次の4つの論点から鴻臚館が福岡城内にあったと考えた。
① 736(天平8)年に新羅へ派遣された人々が詠(うた)った和歌からみて、筑紫館は志賀島と荒津浜を同時に見渡せ、蝉時雨(せみしぐれ)や荒津の波音が聞こえる小高い場所にあった。
② 869(貞観11)年の新羅海賊船博多湾侵入事件後、鴻臚館に付設された「博多警固所(けごしょ)」は、今の中央区警固に近い。
③ 11世紀はじめの刀伊入冠(といにゅうこう)事件の記事からみて、警固所が福岡城方面の小高い場所にあった。
④ 福岡城内で、大量の古代の瓦、青磁を発見し、ここに瓦葺(かわらぶ)きの壮大な建物があった。
京都(平安京)、大阪(難波)、福岡(筑紫)の3カ所の鴻臚館のうち筑紫の鴻臚館の場所については、江戸時代以来、博多官内町(今の中呉服町周辺)説が有力であったが、博士の福岡城内説によって、みなおされることとなり、大きな反響を得た。1926(大正15)年のことである。
その後、この鴻臚館福岡城内説は1987(昭和62)年末の調査によってほぼ確定した。
これまでの発掘調査
下の説明板 では、鴻臚館の40数年にわたる11次の発掘調査の状況を説明してます。
福岡城内での鴻臚館の発掘調査は1951年~1994年までの11次の調査が行われている。平和台野球場南側部分では、奈良時代から平安時代の鴻臚館の移り変わりが明らかになるとともに、中国製の陶磁器などの国際色豊かな遺物が数多く出土した。
下の図は、「展示館・展示館付近の奈良・平安時代の鴻臚館跡」の図です。

鴻臚館の発見

1987年末に平和台野球場外席スタンド改修工事にともなう調査が行われ、初めて鴻臚館跡が考古学的に確認された。
国際色豊かな遺物が出土

8世紀~11世紀頃の中国、朝鮮、イスラムなどで作られた陶磁器や、ガラス器などが出土し、鴻臚館貿易の実態が明らかになった。
鴻臚館礎石建物の解明

9世紀半ば頃の建物が南北に2棟並んでいることが確認された。この建物は、接待や宿泊の場として利用されたものと考えられた。
トイレの発見

わが国で初めてトイレ遺溝が見つかった。トイレからはトイレットペーパーとして使われた大量の籌木や、木簡が出土。男女別々に使用された可能性がある。
筑紫館掘立柱建物の発見

”┓”状に並ぶ4棟の建物を検出。筑紫館の段階で数回の建て替えがあったことがわかった。
筑紫館の東門の発見

法隆寺東大門とほぼ同じ大きさの八脚門という格式の高い門跡が確認された。
筑紫館塀の確認

東西に75m、南北に58mの長方形区画の周囲に塀をめぐらせていたことが判明。東門と同様に基礎は版築工法による。
大規模な造成跡の確認

筑紫館の造営に先だって尾根を削り、谷を埋めるなど大土木工事の跡が見つかった。 (白線は盛土の跡)
鴻臚館で食べられていた食材を使った料理
下の説明板では、いくつかの資料を参考にした平安時代の鴻臚館の料理について説明してます。

鴻臚館御膳の再現


鴻臚館南館Ⅱ期(8世紀)のトイレ遺構から検出された食物関連資料と『類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)』(平安時代後期)所載の宴会料理を参考に鴻臚館時代(平安時代)の料理を組み立てた。花粉分析の結果からは夏に花期を迎えるものが多かったため、盛夏から秋の食膳をイメージ。
奈良時代のトイレ
下の説明板では、奈良時代のトイレの作り、食べ物、トイレットペーパーとして使われていた細い棒(籌木:ちゅうぎ)等について説明してます。

鴻臚舘ではわが国で最初に古代のトイレが発見された。トイレは、奈良時代前半期のもので、地面に四角形の深い穴を掘って板を渡した汲み取り式である。
土中からは、植物の種や花粉、寄生虫卵、ハエの幼虫、魚の骨などが出てきた。これらから鴻臚館の人たちは、川魚や調理が不十分な肉などを食していたことや、虫下しに効果のある瓜の種を飲んでいたことが推定される。
用を足した後は、当時のトイレットペーパーとして、細い棒(籌木(ちゅうぎ))が使われていた。
鴻臚館跡のトイレ(南から)

藤原京跡のトイレ遺構復元図と「慕帰絵詞」を参考にした想像図
下の写真は、トイレ遺構、 籌木(ちゅうぎ)、植物の種等の写真、説明板です。

下の写真は、トイレ遺構籌木等の出土状況です。
下の写真で、上の段は種子で、左から棗(ナツメ)、茄子(ナス)、胡麻(ゴマ)、山椒(サンショウ)、朝鮮五葉(チュウセンゴヨウ)です。
真ん中の段は、左から花粉で蕎麦(ソバ)、大葉子(オオバコ)、吾亦紅(ワレモコウ)、水葵(ミズアオイ)、右端は寄生虫で鞭虫卵(ベンチュウタマゴ)です。
下の段は、寄生虫で左から有・無鉤条虫卵(ユウ・ムコウジョウチュウラン)、肝吸虫卵(カンキュウチュウラン)です。

下の写真は、奈良時代(8世紀)に、トイレットペーパーとして、使われていた籌木(ちゅうぎ)です。
下の写真は、トイレ遺構の土の中から出たもので、左からヤマモモ、瓜(ウリ)、ツタ、巻貝のヘタ、獣骨片(じゅうこつへん)です。
トイレ遺構内の土の中には、寄生虫や植物の種、獣骨、魚骨などが含まれていることがわかりました。このことから、当時の食べ物の種類、調理法などが推定できるようになりました。
アクセス
〒810-0043 福岡県福岡市中央区城内1-4
●地下鉄をご利用の場合
「赤坂」下車 徒歩約7分
●バスをご利用の場合
「福岡城・鴻臚館前」「福岡市美術館東口」「大手門・平和台陸上競技場入口」下車
徒歩約5分〜8分
「赤坂3丁目」下車 徒歩約10分
●車をご利用の場合
都市高速「天神北ランプ」「西公園ランプ」より約3キロ圏内に
駐車場あり
利用案内
開館時間:9:00~17:00(入館は16:30)
休館日 :12月29日~1月3日(通常)
利用料金:無料
TEL :092-721-0282
最後に
次回も鴻臚館跡展示館の記事になる予定です。よろしかったら覗いて下さい。
鴻臚館跡展示館ー鴻臚館の成り立ち、大宰府との関係、出土陶磁器等を解説!
福岡の博物館 ー鴻臚館跡展示館1 鴻臚館とは?・大宰府と鴻臚館・筑紫館と鴻臚館・出土陶磁器等


[目次]
プロローグ
先日、大濠公園近くに用事があったので、帰りに舞鶴公園内にある鴻臚館(こうろかん)跡、鴻臚館跡展示館に行ってきました。前回は「国史 鴻臚館跡」を記載しました。
鴻臚館跡展示館については、数回に分けて記載します。今回は、「鴻臚館とは?・大宰府と鴻臚館・筑紫館と鴻臚館・出土陶磁器等」に関する説明板、展示物について記載します。
下の写真は、 鴻臚館跡展示館の出入り口です。

下の写真は、出入口付近です。

下の写真は、鴻臚館跡展示館案内図です。

鴻臚館とは?
下の説明板は、鴻臚館の由来、存続期間、施設用途、発掘出土品、国史跡の指定等について説明してます。
鴻臚館

鴻臚館は、古代におけるわが国の外交施設であり、平安時代には福岡(筑紫:つくし)、大阪(難波:なにわ)、京都(平安京)の3ヶ所に置かれました。その跡が確かめられたのは雄一、福岡の鴻臚館だけです。
福岡の鴻臚館は、7世紀後半~11世紀半ば(飛鳥(あすか)時代~平安時代)の約400年もの長い間存続しました。飛鳥・奈良時代には”筑紫館”(つくしのむろつみ)と呼ばれましたが、平安時代になると中国唐王朝において外交をつかさどる鴻臚寺(こうろじ)にならい、鴻臚館とその名を改めました。鴻臚館は、奈良~平安時代の初めのころまでは、中国や新羅(しらぎ)からの外交使節をもてなしたり、わが国からの遣新羅使(けんしらぎし)や遣唐使(けんとうし)、留学生の宿泊地として利用されました。平安時代半ばからは、外国から商人が往来する交易の拠点施設となり、後の中世都市博多が生まれる先駆的な役割を果たしました。
昭和62(1987)年末の発見からこれまでの発掘調査で出土した中国の唐代~北宋(ほくそう)代や、朝鮮半島の新羅王朝のころ作られた陶磁器(とうじき)、西アジアのガラス容器やイスラム陶器などの大量の遺物は、古代日本最大の東アジア交流の拠点であったことを物語っています。
鴻臚館跡は、わが国の古代外交のシンボルとして特に重要な史跡であることから、中心施設と考えられる建物跡などが残る東西約150m、南北約320m(面積48,027㎡)の範囲が、平成16年9月30日に国史跡として指定されました。
鴻臚館年表
下の鴻臚館年表には、古墳・飛鳥時代・奈良時代・平安時代における、「記録に残る筑紫館・鴻臚館」、「日本のおもな出来事」、『東アジアのおもな出来事」が記載されてます。
「記録に残る筑紫館・鴻臚館」の例をいくつか挙げます。
「筑紫の鴻臚館は、飛鳥・奈良時代には筑紫館(つくしのむろつみ・つくしのたち)と呼ばれ、飛鳥時代の持統2年(688)に新羅国使金霜林を筑紫館でもてなしたという『日本書紀』の記事に初めて登場します。
また奈良時代の天平8年(736)の遣新羅使が、筑紫館でよんだ歌が『万葉集』に収められています。平安時代の承和4年(847)には鴻臚館の名称で登場し(『入唐求法巡礼行記』)、平安時代の永承二年(1047)大宰府が「大宋国商客宿房」に放火した犯人4人を捕縛した記事が最後の記録となってます。

大宰府と鴻臚館
下の説明板では、「大宰府(だざいふ)と鴻臚館」について、「大宰府の九州での役割と大宰府の出先施設としての鴻臚館」、「鴻臚館と関連する大宰府の機構」、「奈良時代律令制度下の中央政府組織と大宰府」に関する事が記載されてます。
大宰府と鴻臚館との関係

「遠(とお)の朝廷(みかど)」大宰府は、九州(西海道:さいかいどう)およびその諸島の政治的な統括と東アジア諸国との対外交渉の窓口として、また九州の防備(ぼうび)の要(かなめ)として置かれました。
その組織は大宰師(だざいのそち)を長官として、「政所(まんどころ)」、「公文所(くもんじょ)」、「蔵司(くらのつかさ)」などの部署が置かれ5人ほどの役人が従事していました。
鴻臚館は、大宰府の出先施設で、職掌(しょくしょう)上は「蕃客所(ばんきゃくしょ)」に属していました。


古代官道推定図

鴻臚館と大宰府との古代官道推定図の拡大図

木簡
墨で文字が書かれた木片のことを木簡(もっかん)といいます。下の説明板には、木簡について詳しく説明してます。

木簡とは板に墨書(ぼくしょ)したものいう。鴻臚館では貢進物付札(こうしんもつつけふだ:税の品物に付けた荷札)が奈良時代のトイレ遺構から出土している。板には、「肥後国(ひごのくに)」・「京都郡(みやこぐん)」「庇羅郷(ひらごう)」などの地名の他に、当時の税の一つであった「庸(よう)」、「米」・「鹿の乾肉(ほしにく)」などの物品名が記されている。これらの木簡は、大宰府に運ばれた九州各地の税が、遺唐使や遺新羅使、商客のために使われたことを示している。

木簡(奈良時代・8世紀)の実物です。

右より「不明」、真中は「□□玄米二升 五十人 日二合」、左は「不明」と記されてます。
「伊貴(いき)作瓦」銘瓦
「伊貴(いき)作瓦」とは、古代の文字瓦です。鴻臚館の屋根には、伊貴作瓦が葺(ふ)かれてました。

「福岡市西区壱岐(いき(斜ヶ浦:ななめがうら)瓦窯)で作られた。」と説明されてます。
筑紫館と鴻臚館
下の説明板には、鴻臚館の前身の筑紫館と呼ばれた時期、筑紫館が記された史料の名、時代、筑紫館の造営の経緯等についての説明と筑紫館に関する万葉集4首が記載されてます。

筑紫の鴻臚館は、飛鳥(あすか)時代から平安時代初めまでは、筑紫館とよばれました。
筑紫館が史料(しりょう)に初めて現れるのは、688年です。わが国最初の正史「日本書記」持統(じとう)天皇二年正月の条には、新羅(しらぎ)国からの使者である金霜林(きんそうりん)を筑紫館でもてなしたという記事が残されています。
また、奈良時代に編纂(へんさん)された「万葉集巻第十五」には、わが国から新羅に遣(つか)わされた遣新羅使(けんしらぎし)の一行が、736(天平(てんぴょう)8)年に詠(うた)った「筑紫館に至り、遙(はる)かに本郷(もとつくに)を望み、悽愴(いた)みて作る歌四首」等が古くから知られていました。
筑紫館の造営(ぞうえい)は、唐と新羅の連合国と百済を救援した倭国(わこく:日本)とが戦った白村江(はくそんこう)の戦い(633年)の後からまもない時期に、緊迫する朝鮮半島の情勢をみながら、大宰府の整備とともに進められたと考えられています。
歌四首
志賀の海人(あま)の一日もおちず焼く鹽(しお)の辛(つら)き戀(こい)をも吾(われ)はするかも 3652
志賀の浦に漁(いざり)する海人(あま)家人(いえびと)の待(ま)ち戀(こ)ふらむに明(あか)し釣(つ)る魚(うを) 3653
かしふ江に鶴鳴(たづな)き渡る志賀の浦に沖(おき)つ白波立ちし来(く)らしも 3654
今よりは秋づきぬらしあしびきの山松(やままつ)にかげにひぐらし鳴(な)きぬ 3655
万葉集の簡単な意味です。
志賀の海人の 一日もおちず 焼く鹽の 辛き戀をも 吾はするかも
【意味】志賀島の海人たちが一日も欠かさず焼く塩は辛い。そんなからい恋に私は落ちてしまった。
志賀の浦に 漁する海人 家人の 待ち戀ふらむに 明し釣る魚
【意味】志賀の浦で漁をしている海人は、家族が待っているであろうに、夜通し漁を行っている。
かしふ江に 鶴鳴き渡る 志賀の浦に 沖つ白波 立ちし来らしも
【意味】香椎の入り江に鶴が鳴いて飛んでいく。志賀の浦では沖に白波が立って、幾重にも押し寄せているようだ。
今よりは 秋づきぬらし あしびきの 山松にかげに ひぐらし鳴きぬ
【意味】今はもう秋になってしまったらしい。山の松陰でヒグラシが鳴き始めた。
筑紫館から鴻臚館への建物の変遷

下の写真では、青い線が建物等の跡です。

第Ⅰ期 筑紫館の遺構(7世紀後半)
谷を挟んで南と北に並んだ丘を削って敷地を造成し、堀立柱建物(ほったてばしらたてもの)を営んだ。北館と南館建物の主軸線は同じではない。また、北館の造成地の谷側には、小規模だが、石垣が造られていた。
第Ⅱ期 筑紫館の遺構(8世紀前半)
埋め立てはさらに広がり、北側には高さ4mを超える石垣が築かれた。南館と北館の造成地には、まったく同じ規模の施設が営まれた。発掘調査では、東西72m、南北56mの長方形に巡る塀と東門が検出されている。また、南館北館それぞれの掘の外側からは、トイレの遺構が見つかった。
第Ⅲ期 鴻臚館の時代(8世紀前半~9世紀前半)巨大な礎石(そせき)を敷いた、礎石建物の時代である。後世の削平が激しく、一部しか残っていないが、南・北館とも庇(ひさし)がつく大型建物・回廊状建物(かいろうじょうたてもの)、南館には南門とおもわれる基壇跡(きだんあと)などが見つかっている。
第Ⅳ期以降の建物跡は、すでに破壊を受け、確認されていない。
鴻臚館の復元イメージ

飛鳥時代から平安時代にかけて存続した鴻臚館の時期別イメージを、これまでの発掘調査成果を基に、推定復元しました。今後の調査によって細部の構造や建物の構成が変わる場合もあります。
第Ⅰ期の奈良時代の鴻臚館を想定した復元イメージ図です。

第Ⅱ期の奈良時代の鴻臚館を想定した復元イメージ図です。

第Ⅲ期の奈良~平安時代時代の鴻臚館を想定した復元イメージ図です。

出土陶磁器等
下の写真は、交易を物語るコーナーです。

交易を物語るもの
下の説明板では、鴻臚館に中国等からもたらされた多種多様の文物、中国等の陶磁器をはじめとするに遺物ついて説明してます。

鴻臚館には、新羅、唐や宋の商人などによって、薬品、香料、毛皮、綿、綾、装飾品、仏典、絵画、典籍、器物などの多種多様な文物がもたらされた。
これらは非常に貴重な唐物として、当時の人々の憧(あこが)れのまとであった。鴻臚館跡からは、これらのうち、中国各地でつくられた大量の陶磁器が遺物として出土している。
現在の河北省、浙江省、湖南省、福建省、江西省など広い地域から集められ、中には窯から取り出したまま荷造りしたことを物語るものもある。

「中国製陶磁器のふるさと」の拡大図です。

陶磁器の道
陶磁器とは、セラミックの一種で、土を練り固め焼いて作ったものです。下の説明板には、中国の陶磁器が運ばれた海と陸のルート、鴻臚館跡出土の遺物について説明してます。

中国の陶磁器が運ばれたルートは海と陸がある。陸路はいわゆるシルクロード である。内蒙古、 中央アジア、 西アジアへとラクダを使って運ばれた。
一方、 海路も早くからひらかれ、沿岸に沿って東南アジア、インド、パキスタン、シリア、 トルコへと続く、いわゆる“セラミックロード(陶磁の道)”で海のシルクロードと呼ばれている。
これらの海のシルクロードの港湾遺跡からは古代、中世の中国 陶磁が出土している。
鴻臨館での貿易を担ったのは、当初新羅の商人で、後には中国の明州(寧波:ニンポー) の商人たちであった。
鴻盛館跡出土の越州窯青磁花文椀は、 遠くエジプトのフスタート遺跡からも 出土しており、鴻臨館と世界は“セラミックロード”で結ばれていたのである。
「陶磁の道」の地図です。

白磁
白磁(はくじ)とは、白素地に無色の釉薬(ゆうやく:表面をガラス質にするためにかける薬)をかけた磁器です。
白磁椀(はくじわん:中国・唐・9世紀)

白磁皿(はくじさら:中国・唐・9世紀)

白磁稜花皿(はくじりょうかさら:中国・五代・10世紀)

青磁
青磁(せいじ)とは、青緑色の釉 (うわぐすり) のかかった磁器です。
下の写真では、左より 青磁合子蓋(せいじごうすふた:中国・唐~五代・9~10世紀)、青磁灯明皿(せいじとうみょうさら:中国・唐~五代・9~10世紀)

青磁椀(せいじわん:中国・北宋・10世紀)

青磁小壺(せいじこつぼ:中国・五代~北宋・10~11世紀)

青磁双耳壺(せいじそうじこ:中国・五代・10世紀)。

青磁水注(せいじすいちゅう:中国・北宋・10~11世紀)

下の写真は、青磁花文椀(せいじかもんわん:中国・五代~北宋・10~11世紀)の破片です。

青磁花文椀(中国・五代・10世紀)のレプリカです。

陶磁器等
三彩印花鴛鴦文陶枕(さんさいいんかえんおうもんとうちん:中国・唐・9世紀)の破片です。

三彩印花鴛鴦文陶枕(中国・唐・8~9世紀)のレプリカです。

黄釉 褐彩貼花水注(おうゆうかっさいてんかすいちゅう:中国・唐・9世紀)の出土した破片です。

黄釉 褐彩貼花水注(中国・唐・9世紀)のレプリカです。

陶器捏鉢(とうきこねばち:中国・北宋・11世紀)

イスラム陶器(9世紀)の破片です。

アクセス
〒810-0043 福岡県福岡市中央区城内1-4
●地下鉄をご利用の場合
「赤坂」下車 徒歩約7分
●バスをご利用の場合
「福岡城・鴻臚館前」「福岡市美術館東口」「大手門・平和台陸上競技場入口」下車
徒歩約5分〜8分
「赤坂3丁目」下車 徒歩約10分
●車をご利用の場合
都市高速「天神北ランプ」「西公園ランプ」より約3キロ圏内に
駐車場あり
利用案内
鴻臚館跡展示館は、改修工事等のため,下記のとおり一時休館してます。
【休館期間】令和3年2月14日(日曜日)から令和3年3月5日(金曜日)まで
【問合せ先】文化財活用課 092 ‐ 711 – 4666
開館時間:9:00~17:00(入館は16:30)
休館日 :12月29日~1月3日(通常)
利用料金:無料
TEL :092-721-0282
最後に
次回も鴻臚館跡展示館 になる予定です。このブログの鴻臚館跡展示館の記事は、令和3年2月~3月の改修工事前の状況で記載してます。よろしかったら次回も覗いてみて下さい。
古代日本最大の国際交流の拠点であった”鴻臚館”
福岡の史跡ー国史跡 鴻臚館跡


プロローグ
先日、大濠公園近くに用事があったので、帰りに舞鶴公園内にある鴻臚館(こうろかん)跡、鴻臚館跡展示館に行ってきました。
鴻臚館跡は、昭和62年(1987)、かつて西鉄ライオンズ、ダイエーホークスの本拠地であった平和台球場外野席の改修工事に伴う発掘調査で、発見されました。
このあたりは、福岡城跡、福岡むかし探訪館、福岡市美術館等があり、散策には最適です。
鴻臚館についての記事は、長くなりますので分けて記載します。今回は鴻臚館跡地について記載して、次回は鴻臚館跡展示館について記載しようと思ってます。
[目次]
概要
鴻臚館(こうろかん)は平安時代に、平安京、難波、筑紫の三ヵ所に設置された外交施設でした。その名は古代中国で外国との交渉を司る「鴻臚寺」に由来し、「鴻」は大きい、「臚」は伝えるという意味があります。
筑紫の鴻臚館は、飛鳥・奈良時代には筑紫館(つくしのむろつみ・つくしのたち)と呼ばれ、持統2年(688)に新羅国使金霜林(しらぎこくし きんそうりん)を筑紫館でもてなしたという『日本書紀』の記事に初めて登場します。
また天平8年(736)の遣新羅使(けんしらぎし)が、筑紫館でよんだ歌が『万葉集』に収められています。承和4年(847)には鴻臚館の名称で登場し(『入唐求法巡礼行記』)、永承二年(1047)大宰府が「大宋国商客宿房」に放火した犯人4人を捕縛した記事が最後の記事となります。

鴻臚館は、9世紀前半までは、唐や新羅の使節を接待・宿泊させる迎賓館であり、遣唐使や遣新羅使が旅支度を整える対外公館でした。
9世紀後半以降、鴻臚館をおとづれる主役は唐(後には五代・北宋)の商人となり、中国との貿易の舞台となりました。
11世紀後半に貿易拠点が鴻臚館の東の砂丘にある博多に移るまで、古代日本最大の国際交流の拠点でした。
鴻臚館の位置については博多部とするなど各説ありましたが、九州大学教授の中山平次郎博士が『万葉集』、古絵図、地形、出土遺物等の検討から福崎(福岡城内)説を提唱し、現在はそれが定説化しています。
昭和62年(1987)12月、平和台球場改修工事に伴う発掘調査で、鴻臚館の関連遺構が発見されました。以後、福岡市教育委員会はその全容解明のための本格調査を継続しています。
現在までに確認した遣構は、奈良時代以前(筑紫館)の塀と門、奈良時代(筑紫館)の塀と掘立柱建物、平安時代の大型礎石建物、土壙、溝などです。多量の瓦類の他、中国越州窯青磁をはじめ長沙窯磁器、荊窯白磁、イスラム陶器、西アジアガラス器など国際色豊かな遺物が発掘されています。

平成7年には展示館が完成し、遺構の出土状態と復元建物、また出土遺物を見ることができます。


(参照:福岡市の文化財のホームページ)
鴻臚館跡地の変遷
鴻臚館跡地は、飛鳥・奈良時代に筑紫館、平安時代に鴻臚館、江戸時代に福岡城、明治~昭和に大日本帝国陸軍の歩兵第24連隊(福岡連隊)地、昭和~平成に平和台球場、平成に「国史跡 鴻臚館跡」・鴻臚館跡展示館と変遷します。
下の画像は、飛鳥・奈良時代の筑紫館のイメージ画像です。

下の画像は平安時代の「鴻臚館」のイメージ画像です。

下の写真は鴻臚館跡(平和台球場跡・鴻臚館跡展示館)近くにある福岡城跡の東御門跡です。

下の写真は明治~昭和の大日本帝国陸軍の歩兵第24連隊の「福岡連隊跡」の石碑です。

下の写真は平和台球場跡のモニュメントです。
下の写真・動画は平和台球場跡の鴻臚館跡地です。

下の写真は、鴻臚館跡・鴻臚館跡展示館です。

史跡 鴻臚館跡
鴻臚館跡地(平和台球場跡)には、一部フェンスが設置してあり、そのフェンスに「史跡 鴻臚館跡」の説明板が掲げられてます。
史跡 鴻臚館跡1

鴻臚館の役割
鴻臚館は、外国からの賓客(ひんきゃく)をもてなし、滞在させるために平安京(へいあんきょう)・難波(なにわ)と筑紫(つくし)の3カ所に設けられた施設で、筑紫の鴻臚館は古くは筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれました。
奈良(なら)時代までは外交専用の施設で、中国(唐(とう))や朝鮮(新羅(しらぎ))からの使節は、来日するとまずここに収容され、朝廷の許可を得ると京へ向かい、帰国の際にも筑紫から船出しました。我が国の遣唐使(けんとうし)や遣新羅使(けんしらぎし)、留学生などもここから船出するなど、筑紫の鴻臚館は外国への直接の窓口としての役割を担っていました。
平安時代になると、やがて外交使節の来日が途絶えて遣唐使も廃止され、かわって唐や新羅の商人の来航が増加します。商人らは朝廷の許可を得て交易を行い、鴻臚館は外交の場から交易の場へと変容していきました。
(引用元:説明板)


鴻臚館跡の発見
近世まで、鴻臚館の故地(こち)は現在の博多駅北方付近とする説が一般的でしたが、大正時代に九州帝国大学医学部教授であった中山平次郎(なかやまへいじろう)が「万葉集(まんようしゅう)」遣新羅使の歌に描写された情景などをヒントに、鴻臚館を現在の位置に推定しました。
しかし戦後は、福岡国体の競技場やその後の市民野球場への改修工事などにより破壊され、鴻臚館の遺構(いこう)は消滅したとも考えられていましたが、1987年の平和台(へいわだい)野球場外野席の改修工事に伴う発掘調査により、遺跡が良好に残っていることが判明しました。
(引用元:説明板)

福岡市による調査
福岡市教育委員会では1987年の発見を契機として、翌年から鴻臚館跡調査研究指導委員会の指導助言のもと、全容解明のための発掘調査を行っています。
第I期調査は、現在の「鴻臚館跡展示館」とその周辺を対象に実施し、終了後に仮設備を行い、1995年から一般公開しています。第II期は福岡城三ノ丸の西側、第III期は第I期調査部分の周辺を対象に調査を実施しました。
1998年には平和台野球場が撤去され、跡地の調査を開始しました。面積が広大なため南北に二分し、南半部(第IV期)を1999〜2005年に、北半部(第V期)を2006年から調査しています。今後も、鴻臚館の全容解明にとって必要と考えられる地点について調査を行っていく予定です。(引用元:説明板)


史跡 鴻臚館跡2

鴻臚館の変遷
鴻臚館は堀で隔てられた南北二つの客館(きゃくかん)で構成されており、うち北側は文献に残る「鴻臚北館」に相当するとみられます。鴻臚館の造営以前は、二本の丘陵が東へ伸び古墳が造られていました。これまでの調査により、大きく三時期の建物群の変遷が明らかになりました。
【第I期/7世紀後半】
堀の南側に4棟の堀立柱建物(ほったてばしらたてもの)が直角に配置され、北側に1棟の掘立柱建物とこれを囲む柱列(はしられつ)があります。堀の南と北では建物の向きや配置が異なっており、次の第II期のように規格的ではありません。
【第II期/8世紀前半】
造営に先立ち、堀の一部が埋め立てられ、北斜面には高さ4m以上の土留(とど)めの為の石垣が築かれています。この堀をはさんで、南と北に全く同じ方位・規模の区画が造られています。「布堀(ぬのぼ)り」と呼ばれる工法を用いて柱を立て並べた塀(へい)で、東に門を設けています。
また、区画の南西外にはそれぞれトイレを設けているほか、堀の西端には陸橋(りっきょう)を、東側には土橋(どばし)、のちに木橋(きばし)を造って南北の連絡路としています。
【第III期/8世紀後半〜9世紀前半】
礎石(そせき)を用いた大型の建物へと造り変えられています。堀の南側では並行する南北方向の2棟とこれに直交する東西方向の1棟を、北側では東西方向の建物1棟を確認しました。堀は埋められて更に狭くなっています。
【第IV・V期/9世紀後半〜11世紀前半】
建物は発見できませんが、廃棄土坑(はいきどこう)(ゴミ穴)がいくつも掘られており、土坑の出土品から瓦葺(かわらぶ)きの建物が存続していたと推定できます。
【鴻臚館の廃絶】
11世紀中頃以降は、鴻臚館に関する遺構(いこう)や出土品が全く見られなくなり、1047年に「大宋商客宿房(だいそうしょうきゃくしゅくぼう)」放火犯人を捕縛(ほばく)した記録を最後に文献から姿を消す状況によく合致します。(引用元:説明板)




史跡 鴻臚館跡3

南北を隔てる堀
鴻臚館は南北二つの施設からなり、自然地形を利用した深い堀で隔てられており、第Ⅱ期には堀の北斜面に高さ4.2mの土留めの石垣が積まれています。
堀の東側には土盛りの橋が架けられ、南北の通路をつなぐつなぐ通路となっていました。
土の橋はその後、木橋に架け替えられており、堀の底から橋脚とみられる木柱の一部が見つかりました。
(引用元:説明板)


トイレ遺構
トイレと見られる遺構が、南側で3つ、北側で4つ見つかりました。いずれも深さ4mほどの穴を掘り、瓦葺(かわらぶき)の建物で覆(おお)っていたようです。
平面形が方形のものと長方形のものがあり、後者は共同トイレと考えられます。穴の底に堆積し た粘土が、ウリの種や蠅(はえ)のサナギの抜け殻、 トイレットペ ーパー代わりに用いた木片(等木:ちゅうぎ)が多数出土しました。
ま た、科学分析の結果、 寄生虫や薬草などの種子が見つかりま した。トイレは第Ⅱ期にのみ造られており、 他の時期にはあ りません。
(引用元:説明板)

梵鐘鋳造遺構(ぼんしゅうちゅうぞういこう)
地面に直径約3mの穴を掘って鋳型(いがた)を据(す)え、銅を流し込んで釣り鐘(がね)をひとつ造っています。
古代の鐘は使用場所の近くで造る場合が多く、9世紀前半頃(第Ⅲ期)に鴻臚館の内部に鐘楼(しょうろう)を建て、時刻を告げるために鳴らしたと考えられます。
(引用元:説明板)

鴻臚館の整備
20年にわたる発掘調査により、鴻臚館の姿が少しずつ明らかになってきました。
今後も全容解明のために必要な部分の発掘調査を行い、将来は古代の外交施設である鴻臚館を実感できる史跡公園として整備する予定です。
(引用元:説明板)

鴻臚館跡展示館脇の鴻臚館跡地
鴻臚館跡展示館の脇の鴻臚館跡地には、「鴻臚館跡の整備」、「第Ⅰ期(飛鳥・奈良時代)の建物(筑紫館)」、「第Ⅱ期(奈良時代)の建物(筑紫館)」、「第Ⅲ期(平安時代の)の建物(鴻臚館)」について説明板を設置してます。

下の写真は、「鴻臚館跡」の出入り口のひとつです。

鴻臚館跡の整備

古代日本の外交の窓口”鴻臚館”は国内に3ヵ所置かれましたが、確認されているのは筑紫の鴻臚館跡だけです。この貴重な鴻臚館跡を保存し、広く活用するため、1994年~1995年に旧テニスコート部分について第Ⅰ期整備を行いました。
展示館内では、発掘調査したままの状態と実物大に復元した建物模型を展示してます。
屋外では、奈良時代から平安時代までの約400年間の建物の移り変わりを、3時期(飛鳥~奈良時代・奈良時代・平安時代)に分けて遺構表示しています。
遺構は地下にそのまま保存されています。
(引用元:説明板)


「鴻臚館跡の整備」の説明板の近くの回廊であった所の「礎石と柱」の跡です。


第Ⅰ 期の建物ー筑紫館 飛鳥~奈良時代

筑紫館(鴻臚館の前身)は、約150年存続し、その間に数回の建て替えがありました。
右図中の建物①~④は、初めの頃の建物です。建物①は、幅4.2m以上、長さ22.9mあります。
建物①~④は、東西63m、南北41mの長方形に配置されたようです。見つかった建物遺構は、柱穴と建物の推定範囲を木レンガと自然土舗装で表示してます。
(引用元:説明板)

「第Ⅰ 期の建物ー筑紫館(飛鳥~奈良時代)」の説明板の近くより「第Ⅰ 期の建物ー筑紫館」のあった方を眺める。

第Ⅱ期の建物ー東門 奈良時代

奈良時代の筑紫館(鴻臚館の前身)南館の東門です。堀立柱式で,間口が7.7m,奥行5.3m,大棟までの高さ5.5m~5.8m,柱の直径は約30cmと推定しています。右の門の形は、法隆寺東大門を参考に復元しました。
(引用元:説明板)


「 第Ⅱ期の建物ー東門」の説明板の近くから周辺を撮った動画です。
第Ⅲ期の建物ー鴻臚館 平安時代

筑紫館は、平安時代になると鴻臚館と名を変えます。南館部分の調査では、4棟の建物が確認されました。
南北に長い3棟の建物は,いずれも低い基壇(きだん)を設け,礎石(そせき)を据えています。東側2棟の建物は庇付(ひさしつき)の大型建物で幅12m,長さ18m以上の大きさです。
また,西側の長い建物は,回廊(かいろう),または小さな部屋(子房:しぼう)が続く建物で,幅6m,長さ48m以上の規模です。展示館内ではこの建物の一部を推定復元してます。
推定復元した建物 また,東西に長く続く回廊と思われる建物が1棟確認されていて,屋外に建物の基壇と礎石を復元してます。
(引用元:説明板)

「 第Ⅲ期の建物ー鴻臚館」の説明板の近くより、回廊であった所を眺める。

万葉歌碑
鴻臚館跡(平和台球場跡)より少し離れたところに万葉歌碑があります。この万葉歌碑には、新羅の国に派遣された外交使節一行の中の一人が、はるか故郷の大和の方を望んで詠んだ歌が刻まれてます。


今よりは 秋づきぬらし
あしひきの 山松かげに
ひぐらし鳴きぬ
「筑紫の館」万葉歌碑
”今よりは 秋づきぬらし あしひきの 山松かげに ひぐらし鳴ぬ”
(作者不詳「万葉集」巻十五 3665)
現代語訳 「今からはもう秋になったらしい。山の松かげでひぐらしがないていたから。」天平八年(736年)に新羅の国に派遣された外交使節一行が、往路、筑紫の館に着いた時、一行の中の一人が、はるか故郷の大和の方を望んで詠んだ歌です。
一行は秋になったら帰ってくるからと家族に約束して出発したのに、新羅の国に渡るどころかやっと筑紫の館に着いた所で秋になってしまったので、この悲痛な歌をよんだのです。「今よりは」の初句に、その思いがよく表現されています。
「筑紫の館」は後に「鴻臚館」と呼ばれ、遣唐使や遣新羅使のための宿泊施設と外国の施設と商人のための迎賓館とを兼ねたもので、ここ福岡城跡内にありました。福岡市
(説明板より)
アクセス
〒810-0043 福岡県福岡市中央区城内1-4
●地下鉄をご利用の場合
「赤坂」下車 徒歩約7分
●バスをご利用の場合
「福岡城・鴻臚館前」「福岡市美術館東口」「大手門・平和台陸上競技場入口」下車
徒歩約5分〜8分
「赤坂3丁目」下車 徒歩約10分
●車をご利用の場合
都市高速「天神北ランプ」「西公園ランプ」より約3キロ圏内に
駐車場あり
最後に
次回の記事は鴻臚館跡展示館になる予定です。次回もよろしかったら覗いてみて下さい。
サブブログを更新しました、よろしかったら覗いてみて下さい。
黒田官兵衛の最後の作品・福岡城跡ー裏御門跡~下之橋御門ー
福岡の城ー福岡城跡ー裏御門跡~下之橋御門ー

上之橋御門~天守台までについては下の記事をお読み下さい。
[目次]
地図



裏御門跡
表御門跡の反対側にあり、二の丸から本丸へ入る門が裏御門です。また、本丸から多聞櫓へ移動するには、この裏御門跡を通ることになります。


現在、下之橋御門に隣接している潮見櫓は、この裏御門に建てられていた古時打櫓(ふるときうちやぐら)が、移築された可能性が高いとされています。


この看板の左手が福岡城の中枢である本丸への入口のひとつ、裏御門跡です。ここから本丸へ抜けた先には、藩主が政務を行うとともに、住居としても使われた「本丸御殿」が建っていました。この門の左手にある石垣は、古時打櫓台にあたり、二層の古時打櫓(時櫓、太鼓櫓等とも呼ばれる)があったようです。
近年、古写真や文献等による調査で、下之橋御門に隣接する「潮見櫓」(伝潮見櫓)と伝えられてきた櫓こそ、この古時打櫓である可能性が高くなり、本来の潮見櫓は解体保存されている櫓であることが判明しています。(引用元:説明板)
多聞櫓
多聞櫓は、城内に残る唯一の国指定重要文化財です。総延長72mの櫓は両端に2層の隅櫓をもち、内部は16の小部屋に分かれています。





反対側からみた多聞櫓です。


多聞櫓と石垣の動画です。

南丸(二の丸南郭)にある国指定重要文化財の多聞櫓は、江戸時代から城内に残っている数少ない建物のひとつです。二層の隅櫓とそれに連なる三十間の奥行をもつ平櫓からなります。高く積み上げられた石垣を土台に築かれ、「石落」が備えられていることから、いざというときの防御のための櫓と考えられています。
また、現在の多聞櫓は後世の改修を受けたものと考えられ、平櫓は嘉永6年(1853年)から翌年にかけて建て替えられたものです。戦後、現在の西日本短期大学の学生寮として使われたこともありました。なお、平櫓の内部は、一般に突き抜けの状態となっていることが多いなか、本櫓では、十六の小部屋に別れています。この多聞櫓の内部は非公開となっていますが、イベント時等に一般公開しているほか、桜の季節にはライトアップされ、幻想的な空間をつくりだしています。
(引用元:説明板)
桐之木坂御門跡
下の写真は桐之木坂を登りきる手前の写真です。桐之木坂御門は写真の下の方にありました。桐之木坂は敵の侵入を防御するためにクランクになっていました。追廻門から来た敵は、坂道がクランクになっていたので、桐之木坂御門を見る事が出来ずに、坂道を攻め上ってきて、周囲の石垣の上から挟撃される様になっていました。

追廻橋
福岡城に這入るには、三つのルートがありました。その一つが明治通に面している「上之橋ルート」、二つ目がその西約500メートル先にあった「下之橋ルート」であり、三つ目が福岡城の南側の搦手(からめて:裏門)にある「追廻(おいまわし)橋ルート」です。
追廻橋を渡った先には追廻門がありました。福岡城の南側一帯は、黒田家一門の馬を養っていた大切な所でした。一旦ことあれば、即、馬を追廻門より城内に追い込んで、臨戦に対応する入口でもありました。


松之木坂御門跡
三の丸にある松之木坂は、近くに駐車場やバス停があり、車で来所した場合には福岡城跡にアクセスしやすい所です。かつては松之木坂御門という立派な櫓門が建っていました。現在は坂道と石垣を残すのみとなっています。





福岡城は初代福岡藩主・黒田長政(くろだながまさ)が慶長(けいちょう)6年(1601)から7年がかりで築城しました。ほぼ現在の舞鶴公園にあたる内郭は天守台、本丸、二の丸、三の丸の4層に分かれ、潮見櫓(しおみやぐら)、多聞櫓(たもんやぐら)、花見櫓(はなみやぐら)をはじめとする47もの櫓がありました。
城内の建物や石垣は、火災による焼失や自然災害による崩壊などによってしばしば修復が行われたほか、江戸期を通じて若干の改変がありましたが、築城当初の縄張りに大きな変化はなかったようで、内郭部分41万m2(福岡ドーム6個分)の広さを誇った雄大さを今も感じることができます。城下の武家屋敷まで含めると246万m2(福岡ドーム35個分)もの広さをもつ、日本有数の広大な城です。現在地は三の丸の「松ノ木坂御門跡」へ続く入口にあたり、ここから二の丸、本丸、天守台へと城内を登っていくルートのひとつでした。ここ三の丸には、藩主を支える家老たちの屋敷群がありました。
(引用元:説明板)
名島門
名島門は天正16年(1588年)、小早川隆景(たかかげ)が多々良川口の名島(現在の東区)に築いた名島城の門でした。福岡藩初代藩主・黒田長政が居城を名島城から福岡城に移すとき、黒田二十四騎の一人である林掃部(はやしかもん)に下げ渡され、邸宅の門として使用されていました。
明治中期ごろ、名島門は長崎に移築されそうになったのを、当時の代議士・平岡浩太郎氏によって買い戻され、天神の自宅の門として使用されていました。戦後、ビルの建設に伴い、平岡浩氏(浩太郎氏の孫)によって現在地に移されました。

反対側から見る名島門

黒田如水隠居地(三ノ丸御鷹屋敷)跡
黒田官兵衛(くろだ かんべい)は、晩年を福岡城内で過ごしました。隠居生活を送った「三ノ丸御鷹(おたか)屋敷」は、現在の舞鶴公園の牡丹(ぼたん)・芍薬(しゃくやく)園内にありました。園内には「黒田如水(じょすい)公御鷹屋敷跡」の石碑が立っています。
黒田如水隠居地(三ノ丸御鷹屋敷)跡地への入口です。

反対側には、「ボタン・シャクヤク園」の案内板があります。

屋敷跡に建てられた石碑です。

説明板です。

黒田官兵衛孝高(如水)[1546~1604]は,戦国時代の武将で,筑前黒田藩の藩祖とされる。はじめ赤松氏の一族で当時姫路の小寺氏に仕えたが,のちに羽柴秀吉に従い,竹中半兵衛とともに秀吉の軍師として重きをなし、中国、四国及び九州の平定の後はその軍功により豊前国六郡を封ぜられ,同地に中津城を築いた。
長子長政に家督を譲った後には剃髪して隠居し、如水円清と号した。如水の隠居後、関ガ原の役の功により、長政が筑前国十五郡(福岡県)を与えられ筑前黒田藩の初代藩主となって福岡城を築いた後は、如水もその晩年を福岡城で過ごした。福岡黒田家に仕え、儒教・博物学者として著名な貝原益軒の書「筑前国続風土記」の中に、「城内のいぬゐ(北西)に小高き山あり。是又本丸より高かりしかば、山をならしてひきゝ(低い)岡とし、如水公の兎裘(ときゅう)の宅地(隠居地)とせらる。」という記述のある「三ノ丸御鷹(おたか)屋敷」は現在のここ「ボタン・シャクヤク園」にあった。
(引用元:説明板)
旧母里太兵衛邸長屋門

母里友信(通称太兵衛)。播磨時代から黒田官兵衛に仕え、黒田官兵衛の意向で栗山利安(善助)と義兄弟の契りを結ぶ。黒田家の筑前入り後、鷹取城(直方市)城主となり、後藤基次(又兵衛)の出奔後、益富城(嘉麻市)の城主となりました。
旧母里太兵衛邸長屋門は、昭和40年に福岡城内に移設されてから約50年を経過し、建物の老朽化が進んだため、平成26年10月より保存修理工事を行いました。工事は平成27年4月に完了し、長屋門は往時の姿を取り戻しました。



福岡県指定文化財
旧母里太兵衛邸長屋門
筑前今様の「酒は飲め飲め」で知られる母里太兵衛(母里但馬守友信)は、黒田二十四騎の一人で、福島正則から名槍日本号を飲み取った豪傑として知られている。黒田長政が筑前入国後、六つの支城の一つ大隈城主となったが、慶長二十年(一六一五)六月六日病没した。
現在の天神二丁目の野村證券株式会社の地は、母里太兵衛の当時の屋敷で、この長屋門はそこに構えられていた。武家屋敷長屋門として代表的なこの江戸時代の優れた建造物を末永く保存していくため、昭和三十一年に県の文化財に指定され、同四十年にこの地に移築されたもので、今もなお往時の姿を伝えている。
昭和五十三年三月
福岡市教育委員会(引用元:説明板)
(伝)潮見櫓
三の丸にある下之橋御門の横に建っている二層の櫓が、潮見櫓(しおみやぐら)です。実は、潮見櫓とされているものの、潮見櫓は崇福寺に移築された可能性が高まり、城下に時を告げた太鼓櫓だった可能性が高まっています。(伝)潮見櫓などとされてるのはそのためです。
本来の潮見櫓は、三の丸の北西角に建てられたもので、遠く玄界灘、博多湾を望むことから潮見櫓の名がつきました。海上から攻撃に対する防御の要としての櫓でした。

下之橋御門の方から見た潮見櫓

明治通りから見た(伝)潮見櫓です。

(伝)潮見櫓の脇の説明板です。

(伝)潮見櫓
県指定文化財 昭和27年3月29日指定
福岡城に50近くあった櫓の一つです。大正初期の浜の町の黒田別邸に移築され、昭和31年(1956)に再移築されました。潮見櫓の本来の位置は、現在の位置ではなく、三の丸北西角であり、また、この建物は平成3年の調査の結果、潮見櫓ではなく、城内の別の櫓であると考えられています。
平成20年11月 福岡市教育委員会
(引用元:説明板)
下之橋御門
福岡城跡の門のうち、現在も本来の位置を保っているのは、下之橋御門のみです。三の丸の堀には、東側に上之橋、西側に下之橋がかかり、それぞれに枡形を設けて城門が作られていました。
下之橋御門は、下之橋側の城門であり、本来は二層の櫓門でした。それが一層の門に改装された時期は明らかではないですが、昭和9年撮影の写真ではすでに一層であり、明治時代の間で一層に改められたものと推測されます。
ただし、部材は旧来の部材を転用しており、二層であった痕跡を明瞭にとどめ、さらに「文化二年」の墨書が残されていました。
平成12年8月の不審火で消失しましたが、平成18年~20年で、本来の二層櫓門に復元工事が行われました。

下之橋御門の脇にある説明板です。


下之橋御門(しものはしごもん)
(県指定文化財 昭和31年4月3日指定)
福岡城は、福岡藩初代藩主黒田長政によって、慶長6年(1601)から7年かけて築かれました。城内への門は、堀に架かる3つの橋、上之橋(かみのはし)、下之橋(しものはし)、追廻橋(おいまわしばし)にそれぞれあり、このうち下之橋を渡って入る門がここ下之橋御門(下の橋大手門)です。
現在の門は文化2年(1805)に建てられましたが、明治時代に上層部を失い、長く一層のままでした。平成12年(2000)に不審火によって被災したため、復旧に向けた調査研究を行ない、同20年に二層櫓門(にそうやぐらもん)として復原しました。
門の上層部は、部材に残る痕跡・発掘調査成果・絵図・文献史料などにより、その規模、北側の下屋(げや)の様子、柱の立つ位置、外壁の漆喰壁(しっくいかべ)などが明らかになりました。また直接の資料を欠く部分は、上之橋御門(上の橋大手門)の古写真や本丸表御門(現・崇福寺山門)などを参考にしました。
この復原は専門家で構成する「福岡城跡建造物等復原整備検討委員会」で検討されたものです。これとは異なった復原案も提案されましたが、現段階でより蓋然性が高いと判断された本案を採用しました。平成20年11月 福岡市教育委員会
(引用元:説明板)
アクセス
① 地下鉄大濠公園駅から徒歩で約5分
② 地下鉄赤坂駅から徒歩で約2分
最後に
福岡城は,日本でも有数の規模を誇る城郭であり,福岡の歴史を語る上で欠かせない,貴重な史跡です。福岡市では,この貴重な史跡を保存・活用していくため,「福岡城跡整備基本計画」を策定し,福岡城の整備を進めています。
そこで,福岡市では今後の福岡城整備のための資金として福岡城整備基金(愛称:福岡みんなの城基金)を設置し,寄付等のご協力を呼びかけています。 そして、「上之橋御門」、「潮見櫓」等の復元を予定してます。
こらからも皆さんに末永く愛される「福岡城」であってほしいです。
サブブログを更新しましたので、よろしかったら、ご覧ください。
黒田官兵衛の最後の作品・福岡城跡ー上之橋御門~天守台ー
福岡の城ー福岡城跡ー上之橋御門~天守台ー

プロローグ
先日、用事で大濠公園の近くに行ってきました。用事が早く終わりましたので、大濠公園の隣の舞鶴公園内にある「福岡城跡」に行ってきました。
福岡に住んでいて「大濠公園」や「舞鶴公園」の話は、さくらの名所等としてよくするのですが、「福岡城」の話は、ほとんどしませんでしたが、NHKの大河ドラマ「黒田官兵衛」の影響で少しは話題になることはあります。
現在の「福岡城跡」には城らしい建物はあまり存在せず、数えるほどしか残ってません。そこで、最近は「福岡城」の復元計画が持ち上がってます。
[目次]
概要
福岡城は、江戸時代初頭、関ヶ原の戦いで功績のあった外様大名の黒田長政が、警固村福崎の丘陵地に築いた城です。以降、明治まで福岡藩黒田氏の居城となりました。築城の際に、黒田家ゆかりの地である備前国福岡(現在の岡山県瀬戸市長船町福岡)の地名にちなみ福崎を「福岡」と改めました。普請奉行は野口佐助一成です。城地となった警固村福崎は、古くから商人の町として栄えていた博多の西側に位置します。
現在、城跡の主要部分は国の史跡に指定され、舞鶴公園と大濠公園となっています。城跡には現存櫓や移築された櫓や城門、復元された櫓や城門が点在し、南二の丸多聞櫓とそれに続く南二の丸南隅櫓は国の重要文化財に、伝潮見櫓・大手門(下の橋大手門・渦見門)・移築復元の祈念櫓・母里太兵衛邸長屋門が福岡県文化財指定に、名島門が福岡市文化財にそれぞれ指定されています。また、南二の丸多聞櫓に続く北隅櫓が復元されています。なお、平和台球場跡から出土した国史跡鴻臚館跡がある三の丸跡は二重史跡になります。
毎年春には「福岡城さくらまつり」や「おおほりまつり」が開催され、光雲神社から城跡まで黒田孝高、黒田長政、黒田二十四騎に扮した有名人などの勇壮なパレードも行われます。二の丸の鴻臚館広場にて演武なども行われます。(参照:ウィキペディア)
地図



下の立体模型は上の地図「福岡城跡の案内板」にほぼ一致します。

上之橋御門




城内へ入る門には、堀に架かる3つの橋、上之橋・下之橋・追廻橋にそれぞれあり、このうち上之橋を渡って入る門が上之橋御門(かみのはしごもん・大手門)です。かつては福岡城の正門として使われていました。高さ9.4mにおよぶ石垣の上に2階建ての門で、2階は櫓になっていましたが戦災で焼失しました。
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三ノ丸

ほぼ現在の舞鶴公園にあたる内城は天守台、本丸、二の丸、三の丸の4層に分かれてました。内城部分は41万㎡(東京ドーム9個分)の広さを誇った雄大さを今も感じることができます。三の丸には、藩主を支える家老職の屋敷群がありました。
現在、三の丸にあたる場所には「三の丸スクエア」、「福岡城むかし探訪館」があります。福岡城跡を散策する前に入館して福岡城に関すること学んで散策すると、より理解が深まります。


東御門跡



「東御門跡」は、「三の丸」と「二の丸」をつなぐ門で、ここから二の丸、本丸、天守台へと城内を登っていくメインルートでした。
二の丸


東御門の先からが二の丸です。二の丸は、本丸を防衛するための最終的な防御エリアになる場所でした。
二ノ丸に入るには、主に3つのルートがあります。上之橋御門から東御門のルート、下之橋御門から松の木坂御門のルート、追廻御門から桐の木坂御門のルートです。平坦な三ノ丸とはちがい、二ノ丸内は、途中に段をつけたり、門を設けたり、複雑な通路にするなど、侵入をはばむための工夫がされていました。
扇坂御門



東御門をぬけ、左手に二ノ丸御館を見ながら、本丸表御門に向かう途中に、一段高い郭がありました。同じ二ノ丸の一角ですが、本丸表御門に直接接しているこの郭への侵入を防ぐために、東御門と同じように通路を直角に折り曲げ、扇坂御門を設け侵入を難しくしていました。この門をぬけた先には、扇を広げたような石段があり、扇坂があります。
扇坂

福岡城「二ノ丸」にある梅園への登り口にあたる場所にあるのが「扇坂」です。藩政時代、文字通り扇形をした階段があったらしく、城内に掲示されている古地図にもその姿が描かれています。

祈念櫓

下の写真は三の丸のラグビー場から見た祈念櫓(きねんやぐら)跡の石垣です。

祈念櫓は、本丸の東北隅に鬼門封じの祈念をするために建立されたもので、棟札によると1860年(万延元)年3月に起工し、同年10月に竣工したものです。
その後、1918年(大正7年)福岡市内にある黒田家の菩提寺の崇福寺(そうふくじ)が陸軍省から払下げをうけ、末寺である大正寺住職渡辺玄外老師によって、北九州市八幡東区東台良の同寺境内に移築され、観音堂として使用されていました。1983年(昭和58年)、同寺より福岡城の旧位置に移築され、翌年9月竣工しました。
大正初期の撮影と推定される写真によると、下見板張り、白漆喰の壁、軒先を方杖と軒桁で支える二層の櫓であり、復元された祈念櫓とは著しく外観が異なっています。福岡城から大正寺に移築された際に大幅な改変を受けたものと考えられます。
祈念櫓は、建物が建つ石垣を修復するため、2019年(令和元年)9月に解体しています。解体した櫓の柱や梁などの主要な部材は、別の場所で保管しています。
表御門櫓跡

二の丸の北側から本丸に入るところに表御門(おもてごもん)がありました。表御門は本瓦葺(ほんがわらぶき)で切妻造(きりづまづくり)の櫓門(やぐらもん)でした。現在は櫓台となった石垣のみが残っています。
なお、ここにあった表御門は1918年(大正7年)に陸軍により払い下げられ、福岡市博多区千代にある祟福寺の境内に移築されていますので、現在も見ることができます。

本丸

天守台南側に面する本丸南側の郭を囲むように、東三階櫓から西三階櫓の間に連なる二重二階の武具櫓には、戦いに備えて武器が格納されていました。城内では、現在も残る長く連なる石垣と一部の礎石が、往時の姿を彷彿させます。(黒田家別邸に移築後の写真)
本丸の説明板です。


本丸は、藩主が政務(せいむ)を行うとともに、住居としても使われた「本丸御殿(ほんまるごてん)」があり、天守台へと続く福岡城の中心部です。
天守台への入口となる「鉄御門跡(くろがねごもんあと)」が残っていますが、要衝(ようしょう)の門にふさわしく、敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっています。高く積まれた石垣の上に櫓(やぐら)や堀(へい)が張り巡らされ、上から攻撃できるようになっていました。この鉄御門跡の先には埋門跡(うずみもんあと)があり、やはり狭い門となっています。
定説では福岡城の天守閣がもともと建設されなかったとされていますが、近年では天守閣の存在をうかがわせる文章が発見され、「はじめは天守閣が建設されたが、後年取り壊されたのではないか」という説も説得力を増しており、「幻の福岡城天守閣」をめぐる議論が続けられています。(引用元:説明板)
鉄御門跡
(くろがねごもんあと)

本丸から天守台へ向かうための門が鉄御門(くろがねごもん)です。石段は急で、幅も狭く、とても登りづらい要所となっています。幅の狭い門の両側には、高く積まれた石垣がそびえ立ち、その石垣の上には櫓や塀が張り巡らされていました。そして、いざという時には、上から攻撃できるようになっていました。
理門跡
(うずみもんあと)


埋門(うずみもん)は、城に使われる門の形式のひとつです。合戦時には内側から土壁などで埋めて通路をふさぎ、敵の侵入を防ぐ役割がありました。 また、城主の脱出ルートを隠蔽するために、隠し通路として採用された門形式でもありました。
普段は南側の土壁で遮られていたそうです。鉄御門からのぼったこの一角は「切腹櫓」ともいわれて、敵がここまで攻めてきたら藩主が切腹することを想定していたそうでうす。そこは、重厚な鉄板や木材で上下左右とも厳重に仕切られ、 余人の立ち入りは許されなかったといいます。
天守台跡

歴代の福岡藩主も眺めたであろう天守台跡(てんしゅだいあと)からは、福岡市内360度全方向のパノラマを楽しめます。江戸時代なら福岡城下を一望できたことでしょう。そして、もしも天守閣が存在していたとしたら、そこからはより一層爽快(そうかい)な眺めが得られたはず。この天守閣の有無については議論されていますが、仮に存在したとすると、天守台の礎石(そせき)や石垣の規模から5層の大天守閣が建っていたと推定され、東側に中天守、小天守が立ち並ぶ52万石の大藩にふさわしい偉容(いよう)を誇ったに違いありません。(引用元:説明板)
大天守台 跡に建てられた展望台からは、近くは大濠公園遠くには福岡タワーやPayPayドームが見えます。




天守台跡から福岡城跡近くの市街地を眺めた動画です。
大天守台跡の石垣や礎石です。




以前、福岡のローカル番組の福岡人志、~松本x黒瀬アドリブライブ【福岡放送FBS】でパンクブーブーの黒瀬純さんの案内で福岡の名所をダウンタウンの松本人志さんといっしょに訪ねるという番組がありました。3回目の番組の最後のほうで福岡城跡の天守台(展望台)のベンチで一杯飲みながら、松本さんがその日のロケの話や黒田官兵衛の話等をして中々面白かったです。

アクセス
地図内にある+・-の印をクリックすると拡大・拡小できます。
① 地下鉄大濠公園駅から徒歩で約5分
② 地下鉄赤坂駅から徒歩で約2分
最後に
福岡城についての記事は、長くなりそうなので分割することにしました。次回の記事は、裏御門~下之橋御門の予定です。よろしかったら読んで下さい。
福岡城跡ー地中に埋もれていた!「福岡城跡堀石垣」等ー
福岡の城ー福岡城跡堀石垣等

プロローグ
先日、大濠公園近くで用事があり、早く用事が終わりましたので、近くの「史跡 福岡城跡堀石垣」に行ってきました。この史跡への出入口は何か機械室への出入口のような建物になっているのですが、中は地下鉄の工事で発見された「福岡城跡堀石垣」がある場所なのです。
出入り口は歩行者道路内にありますが、真横が自転車道路ですので自転車にぶつからないように気をつけなければなりません。
[目次]
概略
地下鉄赤坂駅近く、明治通りの赤坂交差点から西へ2分ほど歩いたところに「史跡 福岡城跡堀石垣」の地下への出入り口が有り、毎週土・日曜日の午前10時から午後5時まで、保存されている福岡城外堀の石垣を見学できます。
この石垣は、明治43年に市内電車を通した際に埋められましたが、昭和53年の地下鉄工事で発見されたものです。残された石垣はわずかですが、時代の推移に従って石垣の積み替えが行われたことなどがわかる貴重なものです。
入口附近
「福岡城堀石垣跡」周辺の案内板です。

かつて「西鉄ライオンズ」が本拠地としていた「平和台球場」のモニュメントです。

「史跡 福岡城跡堀石垣」の掲示板です。


上の説明板は年月を経て読みにくいですが下のように書かれてます。
史跡 福岡城跡堀石垣
福岡城は関ヶ原の戦功によって、豊前十二万石から一挙に筑前五十二万石を拝領した黒田長政が慶長六年(西暦一六〇一年)から七か年の歳月を費して築城したもので、城の規模は、広さが二十四万坪(約八十万平方メートル)で、本丸をはじめとして大小四十七の櫓が築かれ、雄大なものであった。
「福岡城」の名の起こりは、黒田家の出身地が備前国邑久(おく)郡福岡(岡山県)であったことに由来している。
この石垣は明治四十三年に市内電車(旧福博電車、後の西鉄電車)敷設の際に埋められたが、地下鉄工事によって発見(昭和五十三年)され保存されたもので、この他にも平和台球場入口に二か所保存されている。この石垣が公開保存されたのは、時代の推移に従って石垣の積み変えが明らかに残っていること、及び基盤が岩で石垣が動かず当時の姿に比較的近いであろうという判断によるものである。
石の材質は玄武岩で、宮ノ浦(西区)の唐泊地区から取り寄せたことが文献からうかがわれる。
当時の堀の規模は、幅が三十間(約五十メートル)、深さは堀の中央部で二間(約三・五メートル)と伝えられている。
昭和五十四年十月福岡市教育委員会
「福岡城跡堀石垣」への入口です。最近は、新型コロナ感染の影響で見学出来る人数が制限されてます。

入口から階段を降りていくと係員の方がいます。

福岡城堀石垣跡
石垣は約10数メートル程続きます。柵は有りますが、石垣を間近で見ることができます。




福岡城跡全般の石垣の説明

福岡城の石垣
福岡城は天守台、本丸、二の丸、三の丸など多くの部分が石垣で造られてます。

その総延長は3kmを越え、高さが10m超えるところもあり、石垣のすばらしさで有名な城です。
一見、同じに見える石垣ですが、大きく二種類に分けられます。
一つは自然石を積み上げた野面積(のづらづみ)の石垣で、基本的には古い石垣に使われていたと考えられます。天守台を中心に城の南に多く採用されてます。石材は玄武岩が多く、他に礫岩も使われています。
二つ目は、矢で割った粗割石を用いて積み上げた石垣です。上之橋御門石垣にも採用されている積み方です。野面積に比べると、石垣の勾配は急になり高さも増していきます。石材には矢穴の割跡が残ってます。お城の北側を中心に見られ、石材は主に花崗岩が使用されてます。
また、石材の一部にには刻印と呼ばれる「卍」・「〇」・「◇」などの記号が見られるものがあります。(参照:説明板)

野面積(のづらづみ)とは、未加工の自然の石を積み上げた石垣です。石の形に統一性がありませんので隙間や出っ張りができ、排水に優れ頑丈です。技術的に初期の石積法です。

割石積(わりいしづみ)とは、表面に出る石の角や面を叩き、石と石の隙間を減らして積み上げる方法です。隙間には間詰石が詰められました。

算木積(さんぎづみ)とは、石垣隅の積み方で、長方形の石材を1段毎に方向を違えて積み上げる方法です。長方体の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせることで強度を増します。

福岡城跡の地図、絵図等の説明
下の地図は江戸時代の福岡ですが、うっすらと白い線でもう一つ地図が見えるのですが、それが現在の福岡になります。この地図を見るといかに埋め立てられたのかがよく分かります。

下の絵図は正保3年(1646年)に幕府に届けられたもので、福岡城が描かれた絵図としては最も古い絵図です。福博惣絵図(福岡城部分、福岡市博物館所蔵)

アクセス
地下鉄
地下鉄空港線・赤坂駅から徒歩約2分。
バス
西鉄バス・法務局前から徒歩約4分。
最後に
「福岡城跡」の記事を書いていたら、たいへん長くなりそうなので、数回に分けることにしました。「福岡城跡」の次の記事は「上之橋御門(かみのはしごもん)~天守台」にする予定です。
今田美桜さんの いまだ!福岡行ってみよっ!
福岡県のGO TO キャンペーン

プロローグ
今朝(2020年10月7日)、テレビで地元の情報番組を見てたら、今田美桜さんが出演している福岡県観光連盟のGO TO キャンペーン動画で福岡県の魅了を紹介してました。よく出来てますので取り上げてみました。
\#今田美桜 さん出演動画✨/
— 福岡県観光連盟 | Fukuoka Pref. Tourism Association (@visit_fukuoka) October 5, 2020
友達と、恋人と、家族と、仲間と雑踏を避け、ゆったり心地よく巡れる“避密の旅”へご案内!
💛#ふくおか避密の旅 ー #リベンジ女子旅 💛
自粛中、泣く泣く諦めた女子旅だけど、空気も料理もおいしい福岡なら、思いっきりリベンジできる!
福岡も友達もサイコー! pic.twitter.com/VHDZrTmcQ0
[目次]
今田美桜
(いまだ みお、1997年3月5日- )は、日本の女優、グラビアアイドル、タレント。福岡県福岡市出身。株式会社コンテンツ 3(旧 BIGFACE)所属。 (ウィキペディアより)
福岡県観光プロモーション動画『ふくおか「過密の旅」』
国内観光客向けに、新型コロナウイルス感染症拡大により落ち込んだ県内観光業の需要回復のため、「福岡の安全・安心と魅力」を発信する国内観光客向けに、福岡県出身の今田美桜さんが出演している観光プロモーション動画を新たに制作しました。
今田美桜さんが、三密を回避する「新しい旅のカタチ」を実践しながら、県内各地域の隠れた魅力を旅行者の視点から発信しています。
動画を掲載している「ふくおか 避密の旅」の特設サイトはコチラ↓
※全4種類の動画や、撮影地の観光情報に加え、国が推奨する「新しい旅のエチケット」、県の感染防止宣言ステッカー情報などが掲載されています。
下の動画では以下のことが紹介されてます。
照寿司

海外客も大絶賛!劇場型エンターテイメント寿司を体感
ここ数年、北九州のグルメといえば「寿司屋」という声が増えています。ここ照寿司も話題のお店。1964年創業の老舗の三代目が、業界に新風を巻き起こし国内外問わず多くのファンを魅了しています。
ネタは、九州・山口で獲れたクエやアワビ、大トロやウニなど選りすぐりの極上のもの。さらに美味しいをもっと!と大将の迫力あるパフォーマンスで、お客さんの目を楽しませます。ここでしか味わえない独創寿司と華麗なパフォーマンスショーを体感してください。
平成筑豊鉄道 運転体験

運転士気分を満喫!ローカル鉄道でリアル運転体験
ビール列車や結婚式の2次会列車・同窓会列車など、様々な観光・イベント列車を企画する平成筑豊鉄道。人気の運転体験は本物の車両に乗って、金田駅構内に設置された片道約150mの体験用レールの上を走ります。
運転士気分を味わえ一生の思い出になること間違いナシです!また構内や運転司令室の見学なども実施。鉄道ファン以外でも心踊る発見がたくさんありますよ!体験は10〜25人までの小学3年生以上の団体客が対象。詳細は公式サイトで。
恋木神社

ハートがキュート!日本で雄一恋の神様を祀る神社
水田天満宮の中に鎮座。恋命(こいのみこと)という恋愛の神様が祀られています。ハートの陶板が並ぶ「恋参道」を通り抜けると、目の前にはビビッドなピンク色の拝殿が!
参道も鳥居もお守りもぜーんぶハートで、インスタでも話題に。2・3・10・11月はいつもの白いおみくじがピンク色の特別仕様の恋みくじに様変わりするのも必見です。お土産にはカラフルな「ハート守り」がオススメ。恋の神様を味方につけて運気をアップさせましょう!
八女中央大茶園

日本有数のお茶の産地・八女の絶景スポット
肥沃な土壌と豊富な伏流水に恵まれた八女エリアは、お茶を栽培する自然条件に恵まれた場所。山を開墾して造られた70ヘクタールの広さをもつ大茶園は、緑一面で覆われた壮大な景観です。
また晴れた日には展望所から有明海や島原半島まで眺めることができるまさに絶景スポット。最近はトレッキングコースとしても人気です。雄大な景色とお茶の香りに包まれながら清々しい気分が味わえます。
ROOTH2-3-3

大牟田発!人と人、人と地域を繋ぐコミュニケーション空間
世界遺産のレンガを使って造られたROOTH2-3-3は「ROOTS of THINKING. <思い、考える、が根づく>」というコンセプトで誕生しました。開放感あふれる空間ではニューヨークスタイルのドーナツや美味しい珈琲を味わえます。
また業界紙や地方紙など60紙にも及ぶ新聞を楽しめたり、旅先案内⼈役のコンシェルジュが常駐しているのも特徴。多様な人々が集い、新たな価値観を創造する観光拠点で、まだ知らない街の魅力を発見してはいかがですか?
福間海岸ビーチヨガ

自然との調和を体感 リラックスビーチヨガ
福間海岸は、西日本有数のウィンドサーフィンのメッカ。白い砂浜、青い松林が続き、夕日を眺めるにも絶好の場所です。付近にはマリンスポーツのショップや、オシャレなカフェなどもたくさん。
最近この場所で女子に人気なのが「ビーチヨガ」。潮風に吹かれ、波音を聴きながら最高にリラックスした状態で楽しむことができます。そのほかビーチフィットネスなどの体験企画も開催。海の癒し効果を実感できます。
GO TO トラベル
①「Go To Travel キャンペーン」とは、新型コロナウイルス感染症により落ち込んだ旅行需要を喚起するため、宿泊を伴う旅行および日帰り旅行代金の最大5割を国が補助する観光支援策です。
②補助額の内訳は、旅行代金の35%に当たる部分は旅行商品の割引を行い、15%に当たる部分は旅行先の登録加盟店で幅広く利用できる「地域共通クーポン」を発行し、観光地全体の消費を促します。
③対象期間は、2020年7月22日以降の旅行が対象で、実施期間は2021年1月末を予定しています。先行して旅行代金の割引からスタートし、10月1日以降に開始する旅行については地域共通クーポンを付与します。
④申込方法は、旅行者はキャンペーンに参加する旅行会社やオンライン予約サイト、宿泊事業者から申込むことができます。開始当初は旅行後に還付申請手続きが必要ですが、7月27日以降は準備のできた事業者から割引価格での旅行商品を発売します。
⑤その他、観光庁は「感染症の状況により、実施地域を絞るなど臨機応変に対応する」としており、旅行者においても運用方針に変更が生じるリスクがあると説明しています。また予算に達した場合は、早期終了する場合があります。
(支援額の上限:1人1泊あたり2万円、日帰り1人1万円)
この項目は「旅行クーポンサイト!」を参照しました。
最後に
この記事は「ふくおか 避密の旅」のサイトを参照しました。
今田美桜さんは、地元のテレビで高校の頃から見ていたので最近のCM、ドラマ等での活躍は嬉しいです。そのうえ、地元のPRをして頂いてたいへん嬉しいです。是非、福岡県に観光に来て下さい!
福岡城むかし探訪館ー福岡城の今と昔を気ままに時空散歩!
福岡の博物館ー福岡城むかし探訪館


マスコットの「ふくおか官兵衛くん」と「長政くん」(顔のところが空いてるので記念写真が撮れます)です。

プロローグ
先日、用事で大濠公園の近くに行ってきました。用事が早く終わりましたので、大濠公園の隣の舞鶴公園内にある「福岡城むかし探訪館」に行ってきました。福岡城跡にも行ってきましたので、後日「福岡城跡」についても記載しようと思ってます。
余談ですが、藤井聡太ニ冠(王位・棋聖)が令和二年ハ月二十日に王位奪取し、史上最年少二冠に決まった場所が大濠公園内にある「大濠公園能楽堂」です。

[ 目次]
概要
2012年(平成24年)4月、舞鶴公園内福岡城跡にオープンしましたのが「福岡城むかし探訪館」です。黒田如水・長政親子が築いた「福岡城」の歴史と魅力をいろんな手法で紹介する施設です。
「時空のバーチャルムービー」では、昔の福岡城をCGで再現してます。迫力あるリアルな映像は圧巻で、福岡城の勇壮な姿を映し出します。映像の中には、謎に包まれている福岡城の天守閣が登場します。
また、床一面に広がる古地図や福岡城の立体模型を通して、さまざまな角度から福岡城を身近に楽しく体感できます。
施設内MAP


反対側から見ます

立体模型と古地図
江戸時代の福岡城下の古地図を貼った床の中央には、縮尺400分の1の福岡城の再現立体模型を展示してます。ありしの日の福岡城などが一望できます。

下の立体模型は上の地図にほぼ合致します。下にある大きな池の左斜めにある白い建物が「まぼろしの天守閣」です。


下の写真は日本建築学会の第一人者、早川正夫氏指導の作品で、城郭全体を精密に縮尺四百分の一で、約9㎡の大きさにまとめたもので、福岡城跡前、明治通りに面した新日本製薬(株)ビルの玄関内ロビーに展示されています。

床の古地図です。




黒田家の名宝とゆかりの地の数々

福岡には黒田官兵衛と黒田家ゆかりの地が点在しており、名宝の多くが福岡市博物館や福岡市美術館に所蔵されてます。

黒漆塗桃形大水牛脇立兜
(くろうるしぬりだいすいぎゅうわきだてかぶと)

八幡の神の加護を祈って献上された名物兜。福岡藩の初代藩主・黒田長政(1568~1623)の兜です。兜の両脇の金色の角は,水牛の角をかたどっています。
長政の兜として有名な「一の谷兜」とともに,重要文化財に指定されています。兜の本体,ヘルメットの部分が桃の形ににているので「桃形」兜と呼ばれます。長政のトレードマークとなりました。福岡市博物館所蔵。
太刀「日光一文字」
(にっこういちもんじ)


小田原攻めの際、北条氏に降伏を説得し、その礼として北条氏から贈られるたもの。華やかな刃文とその美しい姿で知られる名刀。太刀が収められていた葡萄文蒔絵箱と合わせて国宝です。福岡市博物館所蔵。
刀「へし切長谷部」
(へしきりはせべ)

「福岡城むかし探訪館」にあるレプリカ

当時の主君小寺政織にかわって織田信長に面会した際に拝領したもの。信長の怒りをかった茶坊主が棚の下に隠れたところに、信長がこの刀を差し込んで圧し切ったことが名前の由来です。国宝。福岡市博物館所蔵。

古地図で時空散歩
400年前に現在の舞鶴公園に52万石を治める福岡藩の城が造られました。公園内に残る頑強な石垣、門、櫓などが当時の城を物語り、私達を遥かな時へといざないます。そんな福岡の今と昔が交差する場所に立つのが「福岡城むかし探訪館」です。福岡城のあった時代の地図で福岡城の魅力を紹介します。
下の写真の地図は東から西へ、博多湾を抱く福岡市の古地図です。今のまちの位置を重ね合わせた地図なので、今昔のまちの変化をうかがうことができます。地図には福岡市のまちの情報を紹介するQRコードが配置されています。


福岡藩の初代藩主となった黒田長政は最初、もともとあった名島城(現・東区)に入ります。
しかし、土地が狭いことを理由に新しい城を築くことを検討、候補地の中から、前面は海と地の利がよいだけでなく商業都市・博多に近く、西に大きな入江、背面は丘陵地ということに目をつけ、警固村福崎の地(現・舞鶴公園)に、慶長6年(1601)から約7年の歳月かけて築城しました。
築城のプロ・黒田如水と勇将・長政父子

豊臣秀吉や徳川家康も一目置いたのが軍師・黒田如水と、その子長政、慶長5年(1600)の関ヶ原の闘いで勝利に大きく貢献した長政は、中津(現大分県中津市)12万石から筑前50万石(後に52万余石)へと加増され、筑前福岡藩の初代藩主となり、新しい城を築きます。

如水、長政の父子は、黒田家の故郷、備前国邑久郡福岡(現・岡山県瀬戸内市長船町)にちなみその城を「福岡城」と命名しました。実戦経験が豊富で、大阪城の縄張り図も手掛けた築城のプロ、如水、加藤清正、藤堂高虎とともに三大築城の名手といわれてます。また、息子・長政は武勇に優れ、数々の武功を挙げた勇将です。福岡藩の繁栄は、この二人がいたからこそもたされたと言っても過言ではありません。
今日、福岡では如水、長政父子が眠る崇福寺をはじめ、藩ご用達の店など至る所で黒田家の足跡をたどることができます。また、「酒は吞め呑め・・・」の歌詞でお馴染みの黒田節ももと福岡藩士によって広まったもので、今や全国に知られてます。
忍者も泣いた不落の名城
下の地図で赤印が櫓で黒印が城門です。

海側から望むと、鶴が羽ばたく姿に似ていることから「舞鶴城」とも呼ばれた福岡城。城の内郭面積約410.000㎡(約124.000坪)の巨大な城には、敵が攻めにくい複雑な石垣の上に、侵入を防ぐための大小47の櫓や10を超える城門が置かれてました。
さらに城郭には周囲には堀を張り巡らせます。南北(築堀)や東(中堀・肥前堀)に新たな堀を築いて博多湾や那珂川と結び、くまなく水を還流させました。その堀を潜るには浅すぎ、立つには深すぎる忍者泣かせの傑作です。
当時入り江で湿原化していた西の草香江は博多湾と分離して大堀(大濠)に。今は大濠公園として市民に親しまれています。堀は現在も明治通り沿いや南西側の一部に残り、地下には石垣の遺構も公開されてます。そして、福岡城跡に整備された舞鶴公園。天守台、本丸、二の丸、三の丸・・・と東西1km、南北700mにおよぶ城跡を眺めれば、目の前に往時の大城が浮かび上がるようです。
福岡城に天守閣がない謎

これまで福岡城には天守閣がなっかたと考えられてきました。というのも正保3年(1646)に描かれた福岡城の絵図『福博惣絵図』には天守閣はなく、如水・長政親子は幕府に遠慮して建てなっかたというのが定説でした。
ところが近年、元和6年(1620)に小倉藩主の細川忠興が三男・忠利に宛てた手紙に、「長政が幕府に配慮し、天守などを取り壊すと語った」という記述が発見されて、存在が浮上してます。実際に造ったものの、十数年で取り壊したのでは?と論議を読んでいます。

今も礎石が残る大天守台に登れば、大濠公園や福岡市街、背振山や立花山まで見渡せる見晴らしの良さです。天守閣の存在は定かではありませんが、黒田如水や長政も眺めたであろう大天守台からの眺望は昔の風景を彷彿させます。

時空の風景
福岡城の昔の風景が浮かび上がる館内のガラス窓です。展示を鑑賞する合間にふと窓に目を移すと、当時にタイムスリップしたような感覚に包まれます。

太鼓橋

本丸の南西側に位置し、裏御門の西に隣接するように立っていた太鼓櫓、御時櫓と同じように「時」を告げていたのか、あるいは城内に登城を合図していたのか、その名の通り太鼓台が設けられていたようです。
太鼓櫓は、大正5年(1916)に本丸裏御門とともに黒田別邸(現・福岡市中央区舞鶴)に移築されたとみられますが、戦災によって多くを焼失しました。戦後、「潮見櫓」と伝えられた櫓のみが下之橋御門の脇に移築されました。現在、「伝潮見櫓」といわれている櫓は、実は太鼓櫓であった可能性が高いと考えられています。
松ノ木坂御門

門は城に敵が入る時に最初に目標となる場所です。そのため、門の周辺にはさまざまな工夫がされています。二の丸に通じる松ノ木坂御門の櫓群も、実践的な防御性を狙って櫓が配置されていたようです。現在、松ノ木坂御門へ登る道には石垣が残されていますが、この石垣上に平櫓であった大組櫓があり(写真左手)、櫓門をはさんで右手に見える向櫓との続き櫓だったようです。
武具櫓

天守台南側に面する本丸南側の郭を囲むように、東三階櫓から西三階櫓の間に連なる二重二階の武具櫓には、戦いに備えて武器が格納されていました。
大正8年(1919)、旧黒田家の浜御殿(現・福岡市中央区舞鶴)に移築されましたが、昭和20年(1945)に空襲で焼失しました。城内では、現在も残る長く連なる石垣と一部の礎石が、往時の姿を彷彿させます。(黒田家別邸に移築後の写真)
時空のバーチャルムービー
昔の福岡城をCGで再現。迫力あるリアルな映像は圧巻です。映像の中には、いまだ存在が謎に包まれている福岡城の天守閣が登場します。今と昔を交差しながら、天守閣までの散策コースを歩きます。
下の動画ではCGを使って福岡城の今と昔を交差させながら説明してます。
施設の後方にある福岡城関連等の書籍です。

このブログは「福岡城むかし探訪館」のサイトを参照しました。
アクセス
地図上の+-をクリックすると拡大・拡小します。
〒810-0043 福岡県福岡市中央区城内1-4
●地下鉄をご利用の場合
「赤坂」「大濠公園」下車 徒歩約8分
●バスをご利用の場合
「福岡城・鴻臚館前」「福岡市美術館東口」「大手門・平和台陸上競技場入口」下車
徒歩約5分〜8分
「赤坂3丁目」下車 徒歩約10分
●車をご利用の場合
都市高速「天神北ランプ」「西公園ランプ」より約3キロ圏内に
駐車場あり
ご利用案内
電話 092-732-4801 FAX 092-732-4802
メール tanboukan@fukuokajyo.com
◎開館時間 9:00〜17:00
◎休館日 年末年始(12月29日〜1月3日)
◎入館料 無料
最後に
来福の際は、是非「福岡城むかし探訪館」にお越しください!






