福岡の史跡ー国史跡 鴻臚館跡
プロローグ
先日、大濠公園近くに用事があったので、帰りに舞鶴公園内にある鴻臚館(こうろかん)跡、鴻臚館跡展示館に行ってきました。
鴻臚館跡は、昭和62年(1987)、かつて西鉄ライオンズ、ダイエーホークスの本拠地であった平和台球場外野席の改修工事に伴う発掘調査で、発見されました。
このあたりは、福岡城跡、福岡むかし探訪館、福岡市美術館等があり、散策には最適です。
鴻臚館についての記事は、長くなりますので分けて記載します。今回は鴻臚館跡地について記載して、次回は鴻臚館跡展示館について記載しようと思ってます。
[目次]
概要
鴻臚館(こうろかん)は平安時代に、平安京、難波、筑紫の三ヵ所に設置された外交施設でした。その名は古代中国で外国との交渉を司る「鴻臚寺」に由来し、「鴻」は大きい、「臚」は伝えるという意味があります。
筑紫の鴻臚館は、飛鳥・奈良時代には筑紫館(つくしのむろつみ・つくしのたち)と呼ばれ、持統2年(688)に新羅国使金霜林(しらぎこくし きんそうりん)を筑紫館でもてなしたという『日本書紀』の記事に初めて登場します。
また天平8年(736)の遣新羅使(けんしらぎし)が、筑紫館でよんだ歌が『万葉集』に収められています。承和4年(847)には鴻臚館の名称で登場し(『入唐求法巡礼行記』)、永承二年(1047)大宰府が「大宋国商客宿房」に放火した犯人4人を捕縛した記事が最後の記事となります。
鴻臚館は、9世紀前半までは、唐や新羅の使節を接待・宿泊させる迎賓館であり、遣唐使や遣新羅使が旅支度を整える対外公館でした。
9世紀後半以降、鴻臚館をおとづれる主役は唐(後には五代・北宋)の商人となり、中国との貿易の舞台となりました。
11世紀後半に貿易拠点が鴻臚館の東の砂丘にある博多に移るまで、古代日本最大の国際交流の拠点でした。
鴻臚館の位置については博多部とするなど各説ありましたが、九州大学教授の中山平次郎博士が『万葉集』、古絵図、地形、出土遺物等の検討から福崎(福岡城内)説を提唱し、現在はそれが定説化しています。
昭和62年(1987)12月、平和台球場改修工事に伴う発掘調査で、鴻臚館の関連遺構が発見されました。以後、福岡市教育委員会はその全容解明のための本格調査を継続しています。
現在までに確認した遣構は、奈良時代以前(筑紫館)の塀と門、奈良時代(筑紫館)の塀と掘立柱建物、平安時代の大型礎石建物、土壙、溝などです。多量の瓦類の他、中国越州窯青磁をはじめ長沙窯磁器、荊窯白磁、イスラム陶器、西アジアガラス器など国際色豊かな遺物が発掘されています。
平成7年には展示館が完成し、遺構の出土状態と復元建物、また出土遺物を見ることができます。
(参照:福岡市の文化財のホームページ)
鴻臚館跡地の変遷
鴻臚館跡地は、飛鳥・奈良時代に筑紫館、平安時代に鴻臚館、江戸時代に福岡城、明治~昭和に大日本帝国陸軍の歩兵第24連隊(福岡連隊)地、昭和~平成に平和台球場、平成に「国史跡 鴻臚館跡」・鴻臚館跡展示館と変遷します。
下の画像は、飛鳥・奈良時代の筑紫館のイメージ画像です。
下の画像は平安時代の「鴻臚館」のイメージ画像です。
下の写真は鴻臚館跡(平和台球場跡・鴻臚館跡展示館)近くにある福岡城跡の東御門跡です。
下の写真は明治~昭和の大日本帝国陸軍の歩兵第24連隊の「福岡連隊跡」の石碑です。
下の写真は平和台球場跡のモニュメントです。
下の写真・動画は平和台球場跡の鴻臚館跡地です。
下の写真は、鴻臚館跡・鴻臚館跡展示館です。
史跡 鴻臚館跡
鴻臚館跡地(平和台球場跡)には、一部フェンスが設置してあり、そのフェンスに「史跡 鴻臚館跡」の説明板が掲げられてます。
史跡 鴻臚館跡1
鴻臚館の役割
鴻臚館は、外国からの賓客(ひんきゃく)をもてなし、滞在させるために平安京(へいあんきょう)・難波(なにわ)と筑紫(つくし)の3カ所に設けられた施設で、筑紫の鴻臚館は古くは筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれました。
奈良(なら)時代までは外交専用の施設で、中国(唐(とう))や朝鮮(新羅(しらぎ))からの使節は、来日するとまずここに収容され、朝廷の許可を得ると京へ向かい、帰国の際にも筑紫から船出しました。我が国の遣唐使(けんとうし)や遣新羅使(けんしらぎし)、留学生などもここから船出するなど、筑紫の鴻臚館は外国への直接の窓口としての役割を担っていました。
平安時代になると、やがて外交使節の来日が途絶えて遣唐使も廃止され、かわって唐や新羅の商人の来航が増加します。商人らは朝廷の許可を得て交易を行い、鴻臚館は外交の場から交易の場へと変容していきました。
(引用元:説明板)
鴻臚館跡の発見
近世まで、鴻臚館の故地(こち)は現在の博多駅北方付近とする説が一般的でしたが、大正時代に九州帝国大学医学部教授であった中山平次郎(なかやまへいじろう)が「万葉集(まんようしゅう)」遣新羅使の歌に描写された情景などをヒントに、鴻臚館を現在の位置に推定しました。
しかし戦後は、福岡国体の競技場やその後の市民野球場への改修工事などにより破壊され、鴻臚館の遺構(いこう)は消滅したとも考えられていましたが、1987年の平和台(へいわだい)野球場外野席の改修工事に伴う発掘調査により、遺跡が良好に残っていることが判明しました。
(引用元:説明板)
福岡市による調査
福岡市教育委員会では1987年の発見を契機として、翌年から鴻臚館跡調査研究指導委員会の指導助言のもと、全容解明のための発掘調査を行っています。
第I期調査は、現在の「鴻臚館跡展示館」とその周辺を対象に実施し、終了後に仮設備を行い、1995年から一般公開しています。第II期は福岡城三ノ丸の西側、第III期は第I期調査部分の周辺を対象に調査を実施しました。
1998年には平和台野球場が撤去され、跡地の調査を開始しました。面積が広大なため南北に二分し、南半部(第IV期)を1999〜2005年に、北半部(第V期)を2006年から調査しています。今後も、鴻臚館の全容解明にとって必要と考えられる地点について調査を行っていく予定です。(引用元:説明板)
史跡 鴻臚館跡2
鴻臚館の変遷
鴻臚館は堀で隔てられた南北二つの客館(きゃくかん)で構成されており、うち北側は文献に残る「鴻臚北館」に相当するとみられます。鴻臚館の造営以前は、二本の丘陵が東へ伸び古墳が造られていました。これまでの調査により、大きく三時期の建物群の変遷が明らかになりました。
【第I期/7世紀後半】
堀の南側に4棟の堀立柱建物(ほったてばしらたてもの)が直角に配置され、北側に1棟の掘立柱建物とこれを囲む柱列(はしられつ)があります。堀の南と北では建物の向きや配置が異なっており、次の第II期のように規格的ではありません。
【第II期/8世紀前半】
造営に先立ち、堀の一部が埋め立てられ、北斜面には高さ4m以上の土留(とど)めの為の石垣が築かれています。この堀をはさんで、南と北に全く同じ方位・規模の区画が造られています。「布堀(ぬのぼ)り」と呼ばれる工法を用いて柱を立て並べた塀(へい)で、東に門を設けています。
また、区画の南西外にはそれぞれトイレを設けているほか、堀の西端には陸橋(りっきょう)を、東側には土橋(どばし)、のちに木橋(きばし)を造って南北の連絡路としています。
【第III期/8世紀後半〜9世紀前半】
礎石(そせき)を用いた大型の建物へと造り変えられています。堀の南側では並行する南北方向の2棟とこれに直交する東西方向の1棟を、北側では東西方向の建物1棟を確認しました。堀は埋められて更に狭くなっています。
【第IV・V期/9世紀後半〜11世紀前半】
建物は発見できませんが、廃棄土坑(はいきどこう)(ゴミ穴)がいくつも掘られており、土坑の出土品から瓦葺(かわらぶ)きの建物が存続していたと推定できます。
【鴻臚館の廃絶】
11世紀中頃以降は、鴻臚館に関する遺構(いこう)や出土品が全く見られなくなり、1047年に「大宋商客宿房(だいそうしょうきゃくしゅくぼう)」放火犯人を捕縛(ほばく)した記録を最後に文献から姿を消す状況によく合致します。(引用元:説明板)
史跡 鴻臚館跡3
南北を隔てる堀
鴻臚館は南北二つの施設からなり、自然地形を利用した深い堀で隔てられており、第Ⅱ期には堀の北斜面に高さ4.2mの土留めの石垣が積まれています。
堀の東側には土盛りの橋が架けられ、南北の通路をつなぐつなぐ通路となっていました。
土の橋はその後、木橋に架け替えられており、堀の底から橋脚とみられる木柱の一部が見つかりました。
(引用元:説明板)
トイレ遺構
トイレと見られる遺構が、南側で3つ、北側で4つ見つかりました。いずれも深さ4mほどの穴を掘り、瓦葺(かわらぶき)の建物で覆(おお)っていたようです。
平面形が方形のものと長方形のものがあり、後者は共同トイレと考えられます。穴の底に堆積し た粘土が、ウリの種や蠅(はえ)のサナギの抜け殻、 トイレットペ ーパー代わりに用いた木片(等木:ちゅうぎ)が多数出土しました。
ま た、科学分析の結果、 寄生虫や薬草などの種子が見つかりま した。トイレは第Ⅱ期にのみ造られており、 他の時期にはあ りません。
(引用元:説明板)
梵鐘鋳造遺構(ぼんしゅうちゅうぞういこう)
地面に直径約3mの穴を掘って鋳型(いがた)を据(す)え、銅を流し込んで釣り鐘(がね)をひとつ造っています。
古代の鐘は使用場所の近くで造る場合が多く、9世紀前半頃(第Ⅲ期)に鴻臚館の内部に鐘楼(しょうろう)を建て、時刻を告げるために鳴らしたと考えられます。
(引用元:説明板)
鴻臚館の整備
20年にわたる発掘調査により、鴻臚館の姿が少しずつ明らかになってきました。
今後も全容解明のために必要な部分の発掘調査を行い、将来は古代の外交施設である鴻臚館を実感できる史跡公園として整備する予定です。
(引用元:説明板)
鴻臚館跡展示館脇の鴻臚館跡地
鴻臚館跡展示館の脇の鴻臚館跡地には、「鴻臚館跡の整備」、「第Ⅰ期(飛鳥・奈良時代)の建物(筑紫館)」、「第Ⅱ期(奈良時代)の建物(筑紫館)」、「第Ⅲ期(平安時代の)の建物(鴻臚館)」について説明板を設置してます。
下の写真は、「鴻臚館跡」の出入り口のひとつです。
鴻臚館跡の整備
古代日本の外交の窓口”鴻臚館”は国内に3ヵ所置かれましたが、確認されているのは筑紫の鴻臚館跡だけです。この貴重な鴻臚館跡を保存し、広く活用するため、1994年~1995年に旧テニスコート部分について第Ⅰ期整備を行いました。
展示館内では、発掘調査したままの状態と実物大に復元した建物模型を展示してます。
屋外では、奈良時代から平安時代までの約400年間の建物の移り変わりを、3時期(飛鳥~奈良時代・奈良時代・平安時代)に分けて遺構表示しています。
遺構は地下にそのまま保存されています。
(引用元:説明板)
「鴻臚館跡の整備」の説明板の近くの回廊であった所の「礎石と柱」の跡です。
第Ⅰ 期の建物ー筑紫館 飛鳥~奈良時代
筑紫館(鴻臚館の前身)は、約150年存続し、その間に数回の建て替えがありました。
右図中の建物①~④は、初めの頃の建物です。建物①は、幅4.2m以上、長さ22.9mあります。
建物①~④は、東西63m、南北41mの長方形に配置されたようです。見つかった建物遺構は、柱穴と建物の推定範囲を木レンガと自然土舗装で表示してます。
(引用元:説明板)
「第Ⅰ 期の建物ー筑紫館(飛鳥~奈良時代)」の説明板の近くより「第Ⅰ 期の建物ー筑紫館」のあった方を眺める。
第Ⅱ期の建物ー東門 奈良時代
奈良時代の筑紫館(鴻臚館の前身)南館の東門です。堀立柱式で,間口が7.7m,奥行5.3m,大棟までの高さ5.5m~5.8m,柱の直径は約30cmと推定しています。右の門の形は、法隆寺東大門を参考に復元しました。
(引用元:説明板)
「 第Ⅱ期の建物ー東門」の説明板の近くから周辺を撮った動画です。
第Ⅲ期の建物ー鴻臚館 平安時代
筑紫館は、平安時代になると鴻臚館と名を変えます。南館部分の調査では、4棟の建物が確認されました。
南北に長い3棟の建物は,いずれも低い基壇(きだん)を設け,礎石(そせき)を据えています。東側2棟の建物は庇付(ひさしつき)の大型建物で幅12m,長さ18m以上の大きさです。
また,西側の長い建物は,回廊(かいろう),または小さな部屋(子房:しぼう)が続く建物で,幅6m,長さ48m以上の規模です。展示館内ではこの建物の一部を推定復元してます。
また,東西に長く続く回廊と思われる建物が1棟確認されていて,屋外に建物の基壇と礎石を復元してます。
(引用元:説明板)
「 第Ⅲ期の建物ー鴻臚館」の説明板の近くより、回廊であった所を眺める。
万葉歌碑
鴻臚館跡(平和台球場跡)より少し離れたところに万葉歌碑があります。この万葉歌碑には、新羅の国に派遣された外交使節一行の中の一人が、はるか故郷の大和の方を望んで詠んだ歌が刻まれてます。
今よりは 秋づきぬらし
あしひきの 山松かげに
ひぐらし鳴きぬ
「筑紫の館」万葉歌碑
”今よりは 秋づきぬらし あしひきの 山松かげに ひぐらし鳴ぬ”
(作者不詳「万葉集」巻十五 3665)
現代語訳 「今からはもう秋になったらしい。山の松かげでひぐらしがないていたから。」天平八年(736年)に新羅の国に派遣された外交使節一行が、往路、筑紫の館に着いた時、一行の中の一人が、はるか故郷の大和の方を望んで詠んだ歌です。
一行は秋になったら帰ってくるからと家族に約束して出発したのに、新羅の国に渡るどころかやっと筑紫の館に着いた所で秋になってしまったので、この悲痛な歌をよんだのです。「今よりは」の初句に、その思いがよく表現されています。
「筑紫の館」は後に「鴻臚館」と呼ばれ、遣唐使や遣新羅使のための宿泊施設と外国の施設と商人のための迎賓館とを兼ねたもので、ここ福岡城跡内にありました。福岡市
(説明板より)
アクセス
〒810-0043 福岡県福岡市中央区城内1-4
●地下鉄をご利用の場合
「赤坂」下車 徒歩約7分
●バスをご利用の場合
「福岡城・鴻臚館前」「福岡市美術館東口」「大手門・平和台陸上競技場入口」下車
徒歩約5分〜8分
「赤坂3丁目」下車 徒歩約10分
●車をご利用の場合
都市高速「天神北ランプ」「西公園ランプ」より約3キロ圏内に
駐車場あり
最後に
次回の記事は鴻臚館跡展示館になる予定です。次回もよろしかったら覗いてみて下さい。
サブブログを更新しました、よろしかったら覗いてみて下さい。