かざもりのブログ

福岡のこと、役立つ情報等紹介します

黒田官兵衛の最後の作品・福岡城跡ー上之橋御門~天守台ー

福岡の城ー福岡城跡ー上之橋御門~天守台ー

f:id:kazamori:20200915225432j:plain

明治通りからみる(伝)潮見櫓

お名前.com  

 プロローグ

先日、用事で大濠公園の近くに行ってきました。用事が早く終わりましたので、大濠公園の隣の舞鶴公園内にある「福岡城跡」に行ってきました。

福岡に住んでいて「大濠公園」や「舞鶴公園」の話は、さくらの名所等としてよくするのですが、「福岡城」の話は、ほとんどしませんでしたが、NHKの大河ドラマ「黒田官兵衛」の影響で少しは話題になることはあります。

現在の「福岡城跡」には城らしい建物はあまり存在せず、数えるほどしか残ってません。そこで、最近は「福岡城」の復元計画が持ち上がってます。

[目次]

概要

福岡城は、江戸時代初頭、関ヶ原の戦いで功績のあった外様大名の黒田長政が、警固村福崎の丘陵地に築いた城です。以降、明治まで福岡藩黒田氏の居城となりました。築城の際に、黒田家ゆかりの地である備前国福岡(現在の岡山県瀬戸市長船町福岡)の地名にちなみ福崎を「福岡」と改めました。普請奉行は野口佐助一成です。城地となった警固村福崎は、古くから商人の町として栄えていた博多の西側に位置します。

現在、城跡の主要部分は国の史跡に指定され、舞鶴公園大濠公園となっています。城跡には現存櫓や移築された櫓や城門、復元された櫓や城門が点在し、南二の丸多聞櫓とそれに続く南二の丸南隅櫓国の重要文化財に、伝潮見櫓大手門下の橋大手門渦見門)・移築復元の祈念櫓母里太兵衛邸長屋門福岡県文化財指定に、名島門福岡市文化財にそれぞれ指定されています。また、南二の丸多聞櫓に続く北隅櫓が復元されています。なお、平和台球場跡から出土した国史跡鴻臚館跡がある三の丸跡は二重史跡になります。

毎年春には「福岡城さくらまつり」や「おおほりまつり」が開催され、光雲神社から城跡まで黒田孝高、黒田長政、黒田二十四騎に扮した有名人などの勇壮なパレードも行われます。二の丸の鴻臚館広場にて演武なども行われます。(参照:ウィキペディア

 

地図

f:id:kazamori:20200915225728j:plain

f:id:kazamori:20200916153851j:plain

福岡城散策マップ fukuokajokorokan.info

f:id:kazamori:20200916154426j:plain

福岡城跡の案内板より

 下の立体模型は上の地図「福岡城跡の案内板」にほぼ一致します。

f:id:kazamori:20200929170356j:plain

福岡城むかし探訪館展示の立体模型 

上之橋御門 

f:id:kazamori:20201012174604j:plain

f:id:kazamori:20200928125207j:plain

f:id:kazamori:20201012174842j:plain

f:id:kazamori:20200928124100j:plain

明治時代初期頃の上之橋御門 kyushu-sanpo.jp

 城内へ入る門には、堀に架かる3つの橋、上之橋下之橋追廻橋にそれぞれあり、このうち上之橋を渡って入る門が上之橋御門(かみのはしごもん・大手門)です。かつては福岡城の正門として使われていました。高さ9.4mにおよぶ石垣の上に2階建ての門で、2階は櫓になっていましたが戦災で焼失しました。

全国630店舗以上!もみほぐし・足つぼ・ハンドリフレ・クイックヘッドのリラクゼーション店【りらくる】  

三ノ丸

f:id:kazamori:20200916154426j:plain

ほぼ現在の舞鶴公園にあたる内城は天守台本丸二の丸三の丸の4層に分かれてました。内城部分は41万㎡(東京ドーム9個分)の広さを誇った雄大さを今も感じることができます。三の丸には、藩主を支える家老職の屋敷群がありました。

現在、三の丸にあたる場所には「三の丸スクエア」、「福岡城むかし探訪館」があります。福岡城跡を散策する前に入館して福岡城に関すること学んで散策すると、より理解が深まります。

f:id:kazamori:20200929154110j:plain

三の丸スクエア tripadvisor.jp

f:id:kazamori:20200929153151p:plain

福岡城むかし探訪館 

www.kazamoriblog.com

 東御門跡

f:id:kazamori:20200928210623j:plain

f:id:kazamori:20200928210812j:plain

f:id:kazamori:20200928210948j:plain

東御門跡」は、「三の丸」と「二の丸」をつなぐ門で、ここから二の丸本丸天守台へと城内を登っていくメインルートでした。

 

二の丸

f:id:kazamori:20200930102451j:plain

f:id:kazamori:20200916154426j:plain

東御門の先からが二の丸です。二の丸は、本丸を防衛するための最終的な防御エリアになる場所でした。
二ノ丸に入るには、主に3つのルートがあります。上之橋御門から東御門のルート、下之橋御門から松の木坂御門のルート、追廻御門から桐の木坂御門のルートです。平坦な三ノ丸とはちがい、二ノ丸内は、途中に段をつけたり、門を設けたり、複雑な通路にするなど、侵入をはばむための工夫がされていました。

扇坂御門

f:id:kazamori:20200930155014j:plain

扇坂御門・扇坂のCG画像 arcadia cocolog.nifty.com

f:id:kazamori:20200930044044j:plain

f:id:kazamori:20200916153851j:plain

東御門をぬけ、左手に二ノ丸御館を見ながら、本丸表御門に向かう途中に、一段高い郭がありました。同じ二ノ丸の一角ですが、本丸表御門に直接接しているこの郭への侵入を防ぐために、東御門と同じように通路を直角に折り曲げ、扇坂御門を設け侵入を難しくしていました。この門をぬけた先には、扇を広げたような石段があり、扇坂があります。

 扇坂

f:id:kazamori:20200929083656j:plain

扇坂 fukuokacastle.sukura.ne.jp

 福岡城「二ノ丸」にある梅園への登り口にあたる場所にあるのが「扇坂」です。藩政時代、文字通り扇形をした階段があったらしく、城内に掲示されている古地図にもその姿が描かれています。

f:id:kazamori:20201111083118j:plain

祈念櫓

f:id:kazamori:20201002094514j:plain

祈念櫓 bunkazai.city.fukuoka.lg.jp

下の写真は三の丸のラグビー場から見た祈念櫓(きねんやぐら)跡の石垣です。

f:id:kazamori:20201002095030p:plain

祈念櫓跡の石垣 fukuokajyo.com

祈念櫓は、本丸の東北隅に鬼門封じの祈念をするために建立されたもので、棟札によると1860年(万延元)年3月に起工し、同年10月に竣工したものです。
 その後、1918年(大正7年)福岡市内にある黒田家の菩提寺の崇福寺(そうふくじ)が陸軍省から払下げをうけ、末寺である大正寺住職渡辺玄外老師によって、北九州市八幡東区東台良の同寺境内に移築され、観音堂として使用されていました。1983年(昭和58年)、同寺より福岡城の旧位置に移築され、翌年9月竣工しました。
 大正初期の撮影と推定される写真によると、下見板張り、白漆喰の壁、軒先を方杖と軒桁で支える二層の櫓であり、復元された祈念櫓とは著しく外観が異なっています。福岡城から大正寺に移築された際に大幅な改変を受けたものと考えられます。

祈念櫓は、建物が建つ石垣を修復するため、2019年(令和元年)9月に解体しています。解体した櫓の柱や梁などの主要な部材は、別の場所で保管しています。

表御門櫓跡

f:id:kazamori:20201111082730j:plain

二の丸の北側から本丸に入るところに表御門(おもてごもん)がありました。表御門は本瓦葺(ほんがわらぶき)で切妻造(きりづまづくり)の櫓門(やぐらもん)でした。現在は櫓台となった石垣のみが残っています。

なお、ここにあった表御門は1918年(大正7年)に陸軍により払い下げられ、福岡市博多区千代にある祟福寺の境内に移築されていますので、現在も見ることができます。

f:id:kazamori:20201001104031p:plain

表御門・祈念櫓 fukuokajyo.com

本丸

f:id:kazamori:20201005182252j:plain

福岡城復元天守閣CG

f:id:kazamori:20201005182422j:plain

現代の地図での本丸

 本丸は、藩主が政務(せいむ)を行うとともに、住居としても使われた「本丸御殿(ほんまるごてん)」があり、天守台へと続く福岡城の中心部です。
 天守台への入口となる「鉄御門跡(くろがねごもんあと)」が残っていますが、要衝(ようしょう)の門にふさわしく、敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっています。高く積まれた石垣の上に櫓(やぐら)や堀(へい)が張り巡らされ、上から攻撃できるようになっていました。この鉄御門跡の先には埋門跡(うずみもんあと)があり、やはり狭い門となっています。
 定説では福岡城の天守閣がもともと建設されなかったとされていますが、近年では天守閣の存在をうかがわせる文章が発見され、「はじめは天守閣が建設されたが、後年取り壊されたのではないか」という説も説得力を増しており、「幻の福岡城天守閣」をめぐる議論が続けられています。(引用元:説明板) 

鉄御門跡

(くろがねごもんあと) 

f:id:kazamori:20201006124244j:plain

本丸から天守台へ向かうための門が鉄御門(くろがねごもん)です。石段は急で、幅も狭く、とても登りづらい要所となっています。幅の狭い門の両側には、高く積まれた石垣がそびえ立ち、その石垣の上には櫓や塀が張り巡らされていました。そして、いざという時には、上から攻撃できるようになっていました。

理門跡

(うずみもんあと)

f:id:kazamori:20201006124451j:plain

f:id:kazamori:20201006124532j:plain

 埋門(うずみもん)は、城に使われる門の形式のひとつです。合戦時には内側から土壁などで埋めて通路をふさぎ、敵の侵入を防ぐ役割がありました。 また、城主の脱出ルートを隠蔽するために、隠し通路として採用された門形式でもありました。

普段は南側の土壁で遮られていたそうです。鉄御門からのぼったこの一角は「切腹櫓」ともいわれて、敵がここまで攻めてきたら藩主が切腹することを想定していたそうでうす。そこは、重厚な鉄板や木材で上下左右とも厳重に仕切られ、 余人の立ち入りは許されなかったといいます。

天守台跡

f:id:kazamori:20201006211715j:plain

福岡城天守台跡案内板 kojodan.jp

歴代の福岡藩主も眺めたであろう天守台跡(てんしゅだいあと)からは、福岡市内360度全方向のパノラマを楽しめます。江戸時代なら福岡城下を一望できたことでしょう。そして、もしも天守閣が存在していたとしたら、そこからはより一層爽快(そうかい)な眺めが得られたはず。この天守閣の有無については議論されていますが、仮に存在したとすると、天守台の礎石(そせき)や石垣の規模から5層の大天守閣が建っていたと推定され、東側に中天守、小天守が立ち並ぶ52万石の大藩にふさわしい偉容(いよう)を誇ったに違いありません。(引用元:説明板)

大天守台 跡に建てられた展望台からは、近くは大濠公園遠くには福岡タワーやPayPayドームが見えます。

f:id:kazamori:20200916205919j:plain

f:id:kazamori:20200925103704j:plain

f:id:kazamori:20200925103756j:plain

f:id:kazamori:20200916210005j:plain

天守台跡から福岡城跡近くの市街地を眺めた動画です。

 

 

大天守台跡の石垣や礎石です。

f:id:kazamori:20201111123907p:plain

f:id:kazamori:20200916210918j:plain

f:id:kazamori:20200916210612j:plain

f:id:kazamori:20201111124122p:plain

天守台の礎石・石垣等

以前、福岡のローカル番組の福岡人志、~松本x黒瀬アドリブライブ【福岡放送FBS】でパンクブーブーの黒瀬純さんの案内で福岡の名所をダウンタウンの松本人志さんといっしょに訪ねるという番組がありました。3回目の番組の最後のほうで福岡城跡の天守台(展望台)のベンチで一杯飲みながら、松本さんがその日のロケの話や黒田官兵衛の話等をして中々面白かったです。

f:id:kazamori:20201112093529p:plain

福岡城跡・展望台 natalie.mu

 

アクセス

地図内にある+・-の印をクリックすると拡大・拡小できます。

 

 ① 地下鉄大濠公園駅から徒歩で約5分
 ② 地下鉄赤坂駅から徒歩で約2分

最後に

福岡城についての記事は、長くなりそうなので分割することにしました。次回の記事は、裏御門~下之橋御門の予定です。よろしかったら読んで下さい。