福岡の城ー福岡城跡ー裏御門跡~下之橋御門ー
上之橋御門~天守台までについては下の記事をお読み下さい。
[目次]
地図
裏御門跡
表御門跡の反対側にあり、二の丸から本丸へ入る門が裏御門です。また、本丸から多聞櫓へ移動するには、この裏御門跡を通ることになります。
現在、下之橋御門に隣接している潮見櫓は、この裏御門に建てられていた古時打櫓(ふるときうちやぐら)が、移築された可能性が高いとされています。
この看板の左手が福岡城の中枢である本丸への入口のひとつ、裏御門跡です。ここから本丸へ抜けた先には、藩主が政務を行うとともに、住居としても使われた「本丸御殿」が建っていました。この門の左手にある石垣は、古時打櫓台にあたり、二層の古時打櫓(時櫓、太鼓櫓等とも呼ばれる)があったようです。
近年、古写真や文献等による調査で、下之橋御門に隣接する「潮見櫓」(伝潮見櫓)と伝えられてきた櫓こそ、この古時打櫓である可能性が高くなり、本来の潮見櫓は解体保存されている櫓であることが判明しています。(引用元:説明板)
多聞櫓
多聞櫓は、城内に残る唯一の国指定重要文化財です。総延長72mの櫓は両端に2層の隅櫓をもち、内部は16の小部屋に分かれています。
反対側からみた多聞櫓です。
多聞櫓と石垣の動画です。
南丸(二の丸南郭)にある国指定重要文化財の多聞櫓は、江戸時代から城内に残っている数少ない建物のひとつです。二層の隅櫓とそれに連なる三十間の奥行をもつ平櫓からなります。高く積み上げられた石垣を土台に築かれ、「石落」が備えられていることから、いざというときの防御のための櫓と考えられています。
また、現在の多聞櫓は後世の改修を受けたものと考えられ、平櫓は嘉永6年(1853年)から翌年にかけて建て替えられたものです。戦後、現在の西日本短期大学の学生寮として使われたこともありました。なお、平櫓の内部は、一般に突き抜けの状態となっていることが多いなか、本櫓では、十六の小部屋に別れています。この多聞櫓の内部は非公開となっていますが、イベント時等に一般公開しているほか、桜の季節にはライトアップされ、幻想的な空間をつくりだしています。
(引用元:説明板)
桐之木坂御門跡
下の写真は桐之木坂を登りきる手前の写真です。桐之木坂御門は写真の下の方にありました。桐之木坂は敵の侵入を防御するためにクランクになっていました。追廻門から来た敵は、坂道がクランクになっていたので、桐之木坂御門を見る事が出来ずに、坂道を攻め上ってきて、周囲の石垣の上から挟撃される様になっていました。
追廻橋
福岡城に這入るには、三つのルートがありました。その一つが明治通に面している「上之橋ルート」、二つ目がその西約500メートル先にあった「下之橋ルート」であり、三つ目が福岡城の南側の搦手(からめて:裏門)にある「追廻(おいまわし)橋ルート」です。
追廻橋を渡った先には追廻門がありました。福岡城の南側一帯は、黒田家一門の馬を養っていた大切な所でした。一旦ことあれば、即、馬を追廻門より城内に追い込んで、臨戦に対応する入口でもありました。
松之木坂御門跡
三の丸にある松之木坂は、近くに駐車場やバス停があり、車で来所した場合には福岡城跡にアクセスしやすい所です。かつては松之木坂御門という立派な櫓門が建っていました。現在は坂道と石垣を残すのみとなっています。
福岡城は初代福岡藩主・黒田長政(くろだながまさ)が慶長(けいちょう)6年(1601)から7年がかりで築城しました。ほぼ現在の舞鶴公園にあたる内郭は天守台、本丸、二の丸、三の丸の4層に分かれ、潮見櫓(しおみやぐら)、多聞櫓(たもんやぐら)、花見櫓(はなみやぐら)をはじめとする47もの櫓がありました。
城内の建物や石垣は、火災による焼失や自然災害による崩壊などによってしばしば修復が行われたほか、江戸期を通じて若干の改変がありましたが、築城当初の縄張りに大きな変化はなかったようで、内郭部分41万m2(福岡ドーム6個分)の広さを誇った雄大さを今も感じることができます。城下の武家屋敷まで含めると246万m2(福岡ドーム35個分)もの広さをもつ、日本有数の広大な城です。現在地は三の丸の「松ノ木坂御門跡」へ続く入口にあたり、ここから二の丸、本丸、天守台へと城内を登っていくルートのひとつでした。ここ三の丸には、藩主を支える家老たちの屋敷群がありました。
(引用元:説明板)
名島門
名島門は天正16年(1588年)、小早川隆景(たかかげ)が多々良川口の名島(現在の東区)に築いた名島城の門でした。福岡藩初代藩主・黒田長政が居城を名島城から福岡城に移すとき、黒田二十四騎の一人である林掃部(はやしかもん)に下げ渡され、邸宅の門として使用されていました。
明治中期ごろ、名島門は長崎に移築されそうになったのを、当時の代議士・平岡浩太郎氏によって買い戻され、天神の自宅の門として使用されていました。戦後、ビルの建設に伴い、平岡浩氏(浩太郎氏の孫)によって現在地に移されました。
反対側から見る名島門
黒田如水隠居地(三ノ丸御鷹屋敷)跡
黒田官兵衛(くろだ かんべい)は、晩年を福岡城内で過ごしました。隠居生活を送った「三ノ丸御鷹(おたか)屋敷」は、現在の舞鶴公園の牡丹(ぼたん)・芍薬(しゃくやく)園内にありました。園内には「黒田如水(じょすい)公御鷹屋敷跡」の石碑が立っています。
黒田如水隠居地(三ノ丸御鷹屋敷)跡地への入口です。
反対側には、「ボタン・シャクヤク園」の案内板があります。
屋敷跡に建てられた石碑です。
説明板です。
黒田官兵衛孝高(如水)[1546~1604]は,戦国時代の武将で,筑前黒田藩の藩祖とされる。はじめ赤松氏の一族で当時姫路の小寺氏に仕えたが,のちに羽柴秀吉に従い,竹中半兵衛とともに秀吉の軍師として重きをなし、中国、四国及び九州の平定の後はその軍功により豊前国六郡を封ぜられ,同地に中津城を築いた。
長子長政に家督を譲った後には剃髪して隠居し、如水円清と号した。如水の隠居後、関ガ原の役の功により、長政が筑前国十五郡(福岡県)を与えられ筑前黒田藩の初代藩主となって福岡城を築いた後は、如水もその晩年を福岡城で過ごした。福岡黒田家に仕え、儒教・博物学者として著名な貝原益軒の書「筑前国続風土記」の中に、「城内のいぬゐ(北西)に小高き山あり。是又本丸より高かりしかば、山をならしてひきゝ(低い)岡とし、如水公の兎裘(ときゅう)の宅地(隠居地)とせらる。」という記述のある「三ノ丸御鷹(おたか)屋敷」は現在のここ「ボタン・シャクヤク園」にあった。
(引用元:説明板)
旧母里太兵衛邸長屋門
母里友信(通称太兵衛)。播磨時代から黒田官兵衛に仕え、黒田官兵衛の意向で栗山利安(善助)と義兄弟の契りを結ぶ。黒田家の筑前入り後、鷹取城(直方市)城主となり、後藤基次(又兵衛)の出奔後、益富城(嘉麻市)の城主となりました。
旧母里太兵衛邸長屋門は、昭和40年に福岡城内に移設されてから約50年を経過し、建物の老朽化が進んだため、平成26年10月より保存修理工事を行いました。工事は平成27年4月に完了し、長屋門は往時の姿を取り戻しました。
福岡県指定文化財
旧母里太兵衛邸長屋門
筑前今様の「酒は飲め飲め」で知られる母里太兵衛(母里但馬守友信)は、黒田二十四騎の一人で、福島正則から名槍日本号を飲み取った豪傑として知られている。黒田長政が筑前入国後、六つの支城の一つ大隈城主となったが、慶長二十年(一六一五)六月六日病没した。
現在の天神二丁目の野村證券株式会社の地は、母里太兵衛の当時の屋敷で、この長屋門はそこに構えられていた。武家屋敷長屋門として代表的なこの江戸時代の優れた建造物を末永く保存していくため、昭和三十一年に県の文化財に指定され、同四十年にこの地に移築されたもので、今もなお往時の姿を伝えている。
昭和五十三年三月
福岡市教育委員会(引用元:説明板)
(伝)潮見櫓
三の丸にある下之橋御門の横に建っている二層の櫓が、潮見櫓(しおみやぐら)です。実は、潮見櫓とされているものの、潮見櫓は崇福寺に移築された可能性が高まり、城下に時を告げた太鼓櫓だった可能性が高まっています。(伝)潮見櫓などとされてるのはそのためです。
本来の潮見櫓は、三の丸の北西角に建てられたもので、遠く玄界灘、博多湾を望むことから潮見櫓の名がつきました。海上から攻撃に対する防御の要としての櫓でした。
下之橋御門の方から見た潮見櫓
明治通りから見た(伝)潮見櫓です。
(伝)潮見櫓の脇の説明板です。
(伝)潮見櫓
県指定文化財 昭和27年3月29日指定
福岡城に50近くあった櫓の一つです。大正初期の浜の町の黒田別邸に移築され、昭和31年(1956)に再移築されました。潮見櫓の本来の位置は、現在の位置ではなく、三の丸北西角であり、また、この建物は平成3年の調査の結果、潮見櫓ではなく、城内の別の櫓であると考えられています。
平成20年11月 福岡市教育委員会
(引用元:説明板)
下之橋御門
福岡城跡の門のうち、現在も本来の位置を保っているのは、下之橋御門のみです。三の丸の堀には、東側に上之橋、西側に下之橋がかかり、それぞれに枡形を設けて城門が作られていました。
下之橋御門は、下之橋側の城門であり、本来は二層の櫓門でした。それが一層の門に改装された時期は明らかではないですが、昭和9年撮影の写真ではすでに一層であり、明治時代の間で一層に改められたものと推測されます。
ただし、部材は旧来の部材を転用しており、二層であった痕跡を明瞭にとどめ、さらに「文化二年」の墨書が残されていました。
平成12年8月の不審火で消失しましたが、平成18年~20年で、本来の二層櫓門に復元工事が行われました。
下之橋御門の脇にある説明板です。
下之橋御門(しものはしごもん)
(県指定文化財 昭和31年4月3日指定)
福岡城は、福岡藩初代藩主黒田長政によって、慶長6年(1601)から7年かけて築かれました。城内への門は、堀に架かる3つの橋、上之橋(かみのはし)、下之橋(しものはし)、追廻橋(おいまわしばし)にそれぞれあり、このうち下之橋を渡って入る門がここ下之橋御門(下の橋大手門)です。
現在の門は文化2年(1805)に建てられましたが、明治時代に上層部を失い、長く一層のままでした。平成12年(2000)に不審火によって被災したため、復旧に向けた調査研究を行ない、同20年に二層櫓門(にそうやぐらもん)として復原しました。
門の上層部は、部材に残る痕跡・発掘調査成果・絵図・文献史料などにより、その規模、北側の下屋(げや)の様子、柱の立つ位置、外壁の漆喰壁(しっくいかべ)などが明らかになりました。また直接の資料を欠く部分は、上之橋御門(上の橋大手門)の古写真や本丸表御門(現・崇福寺山門)などを参考にしました。
この復原は専門家で構成する「福岡城跡建造物等復原整備検討委員会」で検討されたものです。これとは異なった復原案も提案されましたが、現段階でより蓋然性が高いと判断された本案を採用しました。平成20年11月 福岡市教育委員会
(引用元:説明板)
アクセス
① 地下鉄大濠公園駅から徒歩で約5分
② 地下鉄赤坂駅から徒歩で約2分
最後に
福岡城は,日本でも有数の規模を誇る城郭であり,福岡の歴史を語る上で欠かせない,貴重な史跡です。福岡市では,この貴重な史跡を保存・活用していくため,「福岡城跡整備基本計画」を策定し,福岡城の整備を進めています。
そこで,福岡市では今後の福岡城整備のための資金として福岡城整備基金(愛称:福岡みんなの城基金)を設置し,寄付等のご協力を呼びかけています。 そして、「上之橋御門」、「潮見櫓」等の復元を予定してます。
こらからも皆さんに末永く愛される「福岡城」であってほしいです。
サブブログを更新しましたので、よろしかったら、ご覧ください。