福岡アジア美術館ー中村哲氏の功績 特別展ー
[目次]
プロローグ
中村哲さんが亡くられて、しばらく経ちました。先日、天神に用事があり、ついでに近くの下川端町にあるリバレーンセンタービル7Fの福岡アジア美術館で開催されている「中村哲氏の功績・特別展」に行ってきました。
特別展のパンフレットの表紙には以下のように書かれてます。
2013年(第24回)福岡アジア文化賞大賞者受賞者中村哲氏が、12月4日にご逝去されました。
長年にわたりパキスタンやアフガニスタンで、医療や開拓・民生支援の活動を続け、国際協力を実践してきた中村哲氏。
福岡で生まれ育ち、市内の中学校・高校・大学生で学ばれるなど、福岡市にも大変ゆかりのある方でした。
また、2013年の受賞時には、市民フォーラムや学校訪問を行い、たくさんの市民の皆さんとも交流されました。
中村哲氏が残した数々のご功績を偲び、特別展を開催します。
本日より開催「2013年(第24回)福岡アジア文化賞大賞 中村哲氏の功績」(アートカフェ)https://t.co/9RyOdpmmbw
— 福岡アジア美術館/Fukuoka Asian Art Museum (@faamajibi) December 12, 2019
福岡アジア文化賞サイトでの中村氏紹介https://t.co/oL2JzavERX
(ししお)
福岡アジア美術館
同じビルの5,6階にアンパンマンこどもミュージアムも有ります。
出入り口からすぐ前に壁画があります。
概要
福岡アジア美術館は、美術分野でのアジアとの交流を目指して1990年に誕生し、独自の活動によって、日本をはじめ、アジア、世界からの注目を集めてます。また、アジアの近現代の美術作品を系統的に収集し展示する世界で唯一の美術館です。そして、福岡・博多の、まちのエネルギーがうずまく都心にあります。
アクセス
市営地下鉄 [中洲川端駅]下車、徒歩すぐ
福岡空港から[福岡空港駅]より9分
JR博多駅から[博多駅]より3分
西鉄福岡(天神)駅から[天神駅]より1分
西鉄バス [川端町・博多座前]下車、徒歩すぐ
中村哲氏の功績
特別展
日時 2019.12.13(木)~2019.12.23(月)
場所 福岡アジア美術館 7階アートカフェ
入場料 無料
まず、エレベータを降りて、真っすぐ進みますと、アートカフェの出入り口が有ります。
そして、さらに進みますと、カフェの出入り口の少し先に特別展の展示物等が見えます。そして、著作コーナーがあり、また、真ん中あたりにテレビが置いてあり、中村哲さんの福岡アジア文化大賞受賞時のスピーチ等が流されてます。
著作コーナーも有りました。
心にしみる中村哲さんからのメッセージです。
珍しい中村哲さんの虫好きだった小学生時代の写真です。
経歴
1946 福岡県福岡市生まれ
古賀西小学校、西南学院中学校、福岡高校を経て
1973 九州大学医学部卒業
1973-1975 国立肥前療養所
1975-1980 大牟田労災病院
1982 神経病学専門
1984 英国リバプール熱帯医学校熱帯学校専門医(DTM&H)
1984-1994 ペシャワール・ミッション病院ハンセン病棟区長(パキスタン)
1984- ペシャワール会現地代表
1986-98 JAMS(ジャパン・アフガン・メディカルサービス)顧問
(パキスタン・アフガニスタン)
1998-2002 PMS(ピース・ジャパン・メディカル)院長
2002- PMS総院長
2014- 九州大学高等研究院特別主幹教授
海外での 活動
医師としてパキスタンへ 医療活動に従事した日々
1978年、中村さんはパキスタンとアフガニスタンをまたぐヒンズークシュ山脈への登山隊に医師として参加しました。ヒンズークシュ山脈に生息する珍しい蝶への興味もあり登山隊に加わった中村さんでしたが、現地で目にしたのは山岳地帯に生きる人々の厳しい現実でした。
医師がいると聞きつけ、救いを求めてやってきた人々に対し、中村さんは何もしてやれず、はがゆい思いをします。それから、6年後の1984年、パキスタンへの医師派遣の話が舞い込んだときは、妻と幼い子どもがいましたが、ペシャワールで医師として働くことを決意します。
赴任後は、貧困層に多いハンセン病などの治療にあたる傍ら、難民キャンプや山岳地帯のアフガン難民の一般診療にも従事します。そして、1986年からはアフガン難民への診療を本格的に開始します。
1991年には、ダラエヌール(アフガニスタンの東部山岳地帯)に最初の診療所を開設し、1998年には恒久的な基地病院としてPMS(ペシャワール会医療サービス)病院をペシャワールに建設します。以来、東部山岳部の3診療所を中心に、山岳無医村での医療活動を行なってきました。
いろんな苦難の中で、中村さんは紛争により診療所が閉鎖へと追い込まれながらも、延べ73000人を診療し続けます。現在は軸を医療から灌漑事業などに移してますが、地元に譲渡されたPMS病院では、今もなお多くの患者を治療し現地の人の医療教育も行なっています。
干ばつとの闘い
長年にわたり、現地で医療活動を続けてきた中村さんは、医療だけでは人の命を救うことはできないという思いが次第に強くなって行きます。きっかけは、2000年にアフガニスタンを襲った大干ばつでした。
紛争のイメージが強いアフガニスタンですが、人口の8割以上を農民が占める農業国です。そこに大干ばつが襲いかかり豊かな穀 倉地帯が砂漠化し飢饉が発生し多くの人が飢餓に陥りました。数千万人が土地を追われ、餓死も数百万人にものぼると言われてます。
大干ばつにより栄養失調に加え、汚い水を飲み、赤痢で亡くなる人々も大勢いました。医療者たちは、幼い子どもたちの命を奪っていく大干ばつに、なす術なく立ちつくすむのみでした。きれいな水と食べ物さえあれば、多くの人が死なずに済んだという思いが溢れてきました。
ここでは、医療よりも、清潔な水と食べ物の確保が何よりも重要だという信念にたどり着いた中村さんは、PMS病院付近の井戸堀りを中心に新たな活動を始めます。
「100の診療所より1本の用水路」
2000年5月に井戸堀りに挑み、水が出るまで1ヶ月かかりました。当初はイランの湧き水を利用する方法を参考に、飲料用井戸約1600本と直径約5mの灌漑用井戸13本を掘削、伝統的な地下水路38ヶ所を修復しました。
次に、山から流れてくる水に注目、中村さんを含め、みな素人ですが学びながら、2003年、水量の豊なクナール川の水を引き込み、全長25.5キロの農業用水路の建設にも取り掛かります。
7年後に完成した用水路によって復興した田畑は3000ヘクタール、およそ15万人の生在を確保しました。工事には連日500人程の作業員の従事により7年間で70万人の雇用が発生しました。用水路工事は安定した水の確保だけでなく、人々の定着、地域の治安安定にも寄与します。
現地では、建材や重機がなかなか手に入らず苦戦した中村さんは、参考にしたのが福岡県朝倉市の「山田堰」です。山田堰は江戸時代に作られた筑後川にある用水路で、数百年以上たった今も、その地を潤し続けています。
山田堰を参考にしたのは、その場限りの治水工事を目的としてないから、重機が容易に手に入らないアフガニスタンの地で、コンクリートや鉄筋に頼る近代工法ではなく、「蛇籠(じゃかご)工」「柳枝(りゅうし)工」などの日本伝統の治水技術を利用することで、現地の人が自力で修復しやすく、他の地域でも同じように用水路を作ることができるようにしました。
緑の大地計画 大詰めを迎える農村復活事業
ペシャワール会の活動のひとつで、医療事業、灌漑事業に続き、力を入れているもうひとつの柱が農業事業です。
用水路の工事は雇用を生み、その完成で水が戻り、緑の大地となりました。次に必要なのは、そこで生きていく為に食べ物を自給自足し、彼らが農民として平和に暮らせる故郷をつくることです。
2002年、灌漑事業と平行して、長期的な農村復興計画「緑の大地計画」を策定します。自給自足を目指す農村の復興に向けた支援を始めます。そこには現地の人には不可欠であるモスクや住居、地域の核となる学校の建設も入ってます。
中村さんは言います。「土壌があってこそ、初めて平和に暮らしていけるのです。家族がお腹いっぱい食べることができる、そして故郷に安心して住むことができることこそが平和なのです」と。
今では、子どもたちが学校で勉強し、畑でにんじん、ジャガイモ、大根などが収穫できるようになったといいます。
中村さんが長年かけて築いた用水路に沿って、水が流れ、大地が潤い、人々が戻り、村が再建される・・・完成した用水路の最終地点に新たな村ができる頃には、アフガニスタンは緑の大地で覆われているかもしれません。
主な受賞歴
1988 外務大臣表彰(外務省)
1992 毎日国際交流賞(毎日新聞)
1993 西日本文化賞(西日本新聞)
1996 読売医療功労賞(読売新聞) 厚生大臣賞(厚生大臣)
1998 朝日社会福祉賞(朝日新聞)
2003 マグサイサイ賞「平和と国際理解部門」
2009 農業農村工学会賞(旧農業土木学会)
2010 アフガニスタン国会下院表彰
2013 福岡アジア文化賞大賞 第61回菊池寛賞
2016 秋の叙勲「旭日双光賞」受賞
2017 第8回KYOTO地球環境の殿堂入り
2018 アフガニスタン国家勲章 土木学会賞技術賞
著書
『ペルシャワールにて 癪そしてアフガン難民』石風社 1989年
『ペルシャワールからの報告 現地医療現場で考える』河合ブックレット1990年
『アフガニスタンの診療所から』筑摩書房 ちくまプリマーブックス1993年のち文庫本 2012年に一旦絶版、2019年緊急復刊
『ダラエ・ヌールへの道 アフガン難民とともに』石風社 1993年
『医は国境を超えて』石風社 1999年
『医者井戸を掘るーアフガン旱魃との闘い』石風社 2001年
『ほんとうのアフガニスタンー18年間”闘う平和主義”をつらぬいてきた医師の現場報告』光文社 2002年
『医者よ、信念はいらないまず命を救え!アフガニスタンで「井戸を掘る」医者中村哲』羊土社 2003年
『辺境で診る辺境から見る』石風社 2003年
『アフガニスタンで考えるー国際貢献と憲法九条』岩波ブックレット 2006年
『医者、用水路を拓くーアフガンの大地から世界の虚構に挑む』石風社 2007年
『天、共に在りーアフガニスタン三十年の闘い』NHK出版 2013年
共編著
『空爆と「復興ーアフガニスタン最前報告』ペシャワール会共編著、石風社 2004年
『丸腰のボランティアーすべて現場から学んだ』ペシャワール会日本人ワーカー著、編纂 石風社 2006年
『人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束』澤地久枝聞き手 岩波書店 2010年
このブログの記事は福岡アジア文化賞ホームページを参照してます。
下のpdfが「中村哲氏の功績 特別展」のパンフレットの元になってます。
http://fukuoka-prize.org/library/prerel/pdf/ttnakamura_191212.pdf
最後に
下のtwitterの動画は今年(2019年)の6月に中村哲さんが地元のテレビ局の取材で「現在の日本社会に伝えたかった」ことです。
#中村哲 さんが伝えたかったこと
— マス対コア (@MASS_VS_CORE) December 9, 2019
アフガニスタンは昔ながらの大家族制で年寄りには優しい社会、日本は年寄りには怖い社会、反対意見には寄ってたかって叩く、言葉づかい一つまともに話せない…
日本も自然と折り合っていかないと日本そのものもアフガニスタンを追っていくようになる…
RKB毎日放送 pic.twitter.com/480EAHetpa
中村哲さんは、どこかの講演で、やるべきことをある程度終えたら、福岡に帰ってきて山で虫取りをやって、のんびりと暮らすような趣旨のことを仰ってました。本当に、そうして頂きたっかたです。残念でなりません。
サブブログの「読書案内」で著書の「人は愛するに足り、真心は信ずるに足る アフガンとの約束」(岩波書店)を取りあげました。内容は中村哲さんの生い立ち、アフガニスタンでの活動の話等が作家の沢地久枝さんとの対談形式で述べられてますので、読みやすいです。よろしかったら覗いてみて下さい。
中村哲さんのご冥福をお祈り申し上げます。